「書くこと」そして「刺殺される人魚の落書きで僕を喜ばせた美人看護婦さん」と「菩薩の化身である美少年アルバイター」の思い出

こんにちはクミハチです。パスタに乾燥ニンニクを目一杯からめて食いました。慎重な会社員ならば絶対に出来ない食い方で、真似できるなら真似して見ろお前ら、という種類のみみっちい優越感に浸りながらの書き出しです。長丁場のこの毎日散文、まだとば口に入った達成感さえないけれど、この頃つくづく爽快な気分でいます。一人でも毎回読んでおる人があると大変うれしいですけれど、リアリストを自任する僕としては、おそらく誰もいないだろうと見込んでいます(こんな長くてぐ愚痴っぽいもの普通人は好きでない。自分はこうした調合の劇薬を愛するものだけれど)。

書くことで一番恩恵を受けているのが他ならぬ自分であることを、僕は知りすぎる程自覚しています。自分の文章は副作用の心配さえない内服薬ではないし、精神の傷口を縫う糸針でもない。だから世の人心啓発家はじめ多くのすばらしい宗教者やセラピストのように、専門的知見や経験則から人間を立ち直らせようとはしていない(そんなこと弱小無知の僕には身に余る)。むしろ僕は、包帯や瘡蓋の下にある深い裂傷、生々しく蛆の湧いた膿の姿を直視することに最重点を置いてものを書く。目指すところは、「心の治療」や「社会復帰」ではなく、「開眼」と「脱力」にある。背広も革靴もあらゆる下着もみんな脱ぎ捨て裸になって、泥だらけ埃だらけになって馬鹿になって自分の恥部をさらしながら叫んでみる。「みろ!自分はこんな醜い体をしているのだ!足は臭いし、背は低い、屁は臭いし、ちんぽは短小包茎、腋臭がひどくて、ケツはしみだらけ。失業して借金だらけ。子供からも妻からもゴミ扱いで、もうどうしようもないクズ野郎なんだ!」

叫びおえた後の脱力感は、他に何と比較できようか。これは「社会的個人」の消滅、「死の快楽」に他ならないのだ。自分は畢竟ゴミにも劣るのだと地面にぼろぼろの裸体をあずけた瞬間、人は新しく息を吹き返すかもしれない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという「奇跡」を、経験上、僕は否定できない。生ぬるい自己肯定感は、僕にとって、なにひとつ救いにならない。全身火傷に絆創膏一枚が何の役に立つ。もっとも醜悪でもっとも傷の深いところをえぐりだして白日のもとにさらしでもしない限り取っ払うことのできない鬱屈が、「人生」にはいくつもある。誰でも人は、裸になりたい欲求を、本当はうごめかしている。醜い部分や弱い部分を隠蔽しようとする自我の根源的防衛機構を即時打ち壊したいと欲望している。

というわけで、この頃こうした浄化に大きく与っておるわけだから、心的領域の便通が良好なのも不思議でない。便を出して出して、宿便まで出すつもりで書いている。自分でも可視化できていなかった内なる闇に容赦なく光をかざすことには、当然辛さも痛さも羞恥も伴うが、繰り返すように、それを埋め合わせて余りあるだけの浄化作用も即座に得られるわけで、僕のやっているようなまるで要領を得ない自己省察さえもっと色々の形で世に実践されると、皆少しは胸のつかえが下りるに違いないと、真実思うのだ。悩み後悔の処女山に対面し、ひたすら草木を踏み倒しながら山道を開拓していく、そんな悲壮的の快感は、この散文のように、悶えつつも己を巡る万般を分析的に書き綴っていく過程以外では得られないと、僕は信じている。

僕に限らず誰もが、振り返ることさえ辛くて痛くて恥ずかしい経験をある程度胸に封印させている。なかには記憶を捏造してでも忘却させている「経験」もあるだろうし、辛すぎてただただ想起困難の「経験」もあるだろう。そうした禁断の記憶についてはとても手に負えないので、他の周辺事項に関する様々を書いている過程のあるキッカケでおぼろに意識化されるのを根気よく待つか、そのまま触れずに永遠放置しておく以外にない。

「過去の経験」として意識された諸像を「写実的」に記述する行為は、なぜこれほど自分の「羞恥心」をいためつけるのか。たとえばそれは、冷たい土のなかで安穏としていたミミズをある瞬間灼熱の陽光の下に引きずり出すことに似ている。徹底記述・徹底分析に処することは、どう冷静に見ても暴力の範疇に含まれる(他者への暴力ではない、対自的暴力)。それが己のみに開かれた記述・分析行為であったところで、純然たる自己暴力である。

僕も当初、この「羞恥」の障壁を、どうにも克服できなかった。大腿骨のある珍しい病気のために僕は、学齢期少し前から三年間、親元を離れて、県内の特殊な整枝病院に三年間入院していた。手術や病室の光景、慢性的なホームシック、細大様々の感受・経験がその三年間にあっただろうけれど、そこで見て聞いたはずの物事を僕は当然はっきり覚えていない。幼いために、記憶の像も全体おぼろであるし、何に付け記憶は取捨選択されるものだから、信用が置けない。看護婦さんを巡る喜怒哀楽、リハビリの先生に叱られたこと、子供との喧嘩、暗いトイレ、隣接する養護学校でのあれこれ、病室のテレビで見たアニメや音楽、三時当たりのお菓子、おいしくなかった食事、重病の知的障害のある同年齢の子供、男の汗に微かな性的魅力を感じた瞬間、廊下で嘔吐したこと、ノートの落書き、各種玩具カードをプラスチックボックス一杯にため込んで同室の子供に盗まれるのをひどく恐れていたこと、実家に一時帰宅したときに早朝からやり込んだスーパーファミコン、弟の存在、母親から手紙をもらったこと。

歯の欠けすぎた古櫛のような記憶。経験記憶は大体このようなものだ。差し当たりこれら「経験記憶の断片」を誤魔化さずに記述してみることが、僕の限界なのだ。尤も、そこに明瞭なる連続性がない以上は、都合のいい物語にはなりようがないし、今いたずらに創作精神を振るい起こして過度に手を加える危険もないのかもしれない。人は往々にして、自分の曖昧な記憶群を好みの配列に仕立てあげ、甚だしくは大胆に書き換えることさえ厭わない。確実と思える「記憶材料」が少ないことに付け込めば、人はいくらか、自分の好みの創作記憶を生み出すことに無理を感じなくなる。ここで間違ってほしくないのだが、僕は、この創作記憶そのものを非難するつもりはない。創作記憶を紡ぎ出すことで、今現在の重篤な生きづらさが多少でも緩和するなら、いくらでもすればいいと思う。僕もその誘惑に打ち勝つことができない瞬間を沢山知っている。そんな編集能力については、記憶過剰の現代ホモ・サピエンスにこそ最も欠かせない性向とさえ思う。そうでもしないと、満心創痍の人びとは、自意識の上で救われない。痛恨の記憶の影を年中引きずりながら、鬱々毎日を生きなければならない。

にもかかわらず僕は、この記憶における創作傾向を、方法上、極力、排したい。すくなくともその思いが念頭に強くある。創作による弥縫的皮相的空想的の慰めよりも、「実感されたはずの経験本体」に敢えて直面するカタルシスに、より烈しい快楽を認めてやまないからだ。この「実感」とは、「現」に感じられた情動、情緒、様々の「生」の複合的気分のことだ。僕の考えるところでは、こうした「実感」さえ「言語」と切り離すことができないので、「言語以前の実感」というものを安易に想定することはできないけれども、「現にある気分」はどんな形式であれ「僕」の紛うかたなき「経験」であり、それこそ「実感」と称するものなのだ。ともすれば、その「実感」そのものが取りも直さず「物語性」を帯びはじめ、個人の救済確証となる場合もある。僕の場合、以下のようなものだ。

小学二年生か三年生あたりのころ、まだ入院治療の時代だけれど、僕の記憶で、病室で一人寂しそうにしている僕をみかねてか、何人かの看護婦(当時は看護師とは呼ばなかった)さんが暇な時に色々遊んでくれたことを思いだす。美人で、いい匂いがして、たぶん二十代くらいの看護婦さんが、よく僕と遊んでくれた。いま便宜上、看護婦さん、と呼んでいるけれど、彼女は一人だけ、他の看護婦とユニフォームの仕様が少しだけ違っていて、色はやや薄青かったように記憶している。現在の「看護助手」というものに相当する立場にあったのかもしれない。今ではそれも確証の取り様が困難であるし、第一この記憶の根幹を揺るがすようなことでもない。ただ今もはっきり覚えていることは、とびきり綺麗で優しい彼女が、僕の落書き用キャンパスノートに、かなりえげつない絵を描いて遊んでくれたことだ。それは、巨乳の人魚が包丁でザクザク刺殺されているふうな絵で、吹き出しがあったかどうか忘れたが、かっちゃんやめてーと笑いながら叫んでいる(かっちゃんとは、僕にとってありふれた愛称である)。少女向け漫画のタッチではあったけれど、落書き好きの僕は、それを見てうきゃうきゃ喜んでいたはずだ(精神分析的な興味はここでは我慢の末封印する)。当時、僕が彼女に何か絵を描いてくれと頼んだのか、彼女が勝手に絵を描いたのかは、分からない。いまでも実家の押入れの奥にはそのキャンパスノートがあるに違いなく、時間と気力があれば、発掘したい気持ちです。人魚の斬殺は、必ずどこかにある。いま回顧してみると、僕は、その薄青いユニフォームの看護婦さんに、えらくなついていた。当時は子供として好きだった。いまは、「男」として好きになっている、と思う。その人の笑って遊んでくれているときの顔を思いだす時、僕はとても懐かしい気持ちになるが、それと同じくらい「恋情」と呼んでいい何かが沸き起こる。前にも書いたけれど、僕は、同性愛傾向の優位な男で、ふだん「女性」が恋愛対象になることは、記憶の限りほとんどない。特定の女性と肌寄せ合ってセックスする光景を想像してみても、ペニスが勃つことはない。好きな男の体臭を感じながら抱きあうときの、あの官能的興奮を得ることはできない。細くて若い裸の男は好きだけれど、どんな美しい女の裸もみたいとも思わない。その落書き遊びの看護婦さんだけは、どうも違うのだ。僕は、記憶のなかの彼女に抱かれたいと思う。そのままエッチしたいとさえ思う。性愛的にも、僕は彼女に深く恋着しているのだ。不思議ではあるけれど、その看護婦さんだけは、例外の女性なのだ。いまこれを書いていて、僕はペニスが堅くなっていくのが分かる。

ここで、十数年後に話は飛ぶ。二十代前半、大学を色々の理由で中退したあと、気鬱を抱えながら部屋で本ばかり読む生活をしていた僕は、北陸エリアに幅広く展開する近所の食糧小売店(スーパーマーケットだね)で、自分史上最重大の意味を持つことになる恋を得る。アルバイトのレジの青年に見惚れたのだ。年齢はおそらく僕より一つか二つ下くらいか。最初みたときは髪がやけに長く後ろ髪など女性と見間違えるほどだったが、ある日突然に短髪になった。年齢のわりに若白髪が多く、うりざね型の綺麗な童顔。肢体はしなやかで細身。背丈は僕と同じくらいで、低くも高くもない。エプロンみたいなユニフォームの下は毎回違った私服だった。裏地チェックのチノパンツをロールアップしていた彼の後姿は、殊のほか鮮明に覚えている。彼は客のすべてに淑やかな笑顔と清楚な愛敬を全身でふりまいていた。それは傍目には賃金と見合わぬほどの「感情労働」に思えた(というのも男子学生のアルバイターの多くは無愛想でゾンザイ、どこか投げやりな態度が見え見えだというのが通り相場なのだから)。それで僕は緊張しいしい彼のレジをタイミングよく選び、レシートとお釣りをもらい、甘美な一時をえた。目を直視できないくらいの興奮だった。そこで受け取ったレシートのいくつかは大切な文庫本に挟んだりコピーしたりと色々の形で保管している(ちなみにクミハチという筆名は彼の担当するときのレジナンバー938に因んでいる)。僕は、とある瞬間、優美で慈愛の光背さえ見えるような彼の姿を、観世音菩薩の化身なのだと確信した。この菩薩の慈悲深いことは信心薄い僕も幾分知っていて、苦しむ衆生の声を聞き様々の権化の姿でその求めに応ずるという話も、知っていた。ここに無理な飛躍はなかった。苦しみあぐねた男の放埓な空想・妄想などではなかった。これより確証に満ちた実感はありえないほど、強いものだった。賢しらの知人が何を言おうと、僕は菩薩と対面した、これだけは不動の実感(経験)なのだ。

ここで先の看護婦さんに再び戻る。僕が唯一抱きしめられたり、セックスしたいと思うあの看護婦さんの柔和で綺麗な面差しは、アルバイター青年の面差しと驚くほど似ていた。菩薩の化身に違いない青年の相貌を想うにつけ、僕はあの看護婦さんのことも想う。片方は女性で片方は男性だけれど、僕に言わせれば、菩薩は性を超越している。菩薩との対面という、こうした稀有の美的経験さえ、個人史のなかでは様々な韻を踏みながら反復されているのだ。一回目は落書きの遊び相手として、二回目は無垢な青年アルバイターとして。苦みの渦中にあった僕は菩薩の出現によって心的に救われた。いまでも諸々の瑣事のために気を揉んだり激しくいらついたりしながらも、全体としては、「菩薩の守護のもとにある」という安心の繭に包まれている。菩薩経験同様、この庇護感もすこぶる強い実感で、金輪際疑う余地はないのだ。

これと同様の菩薩経験を持つ人は、あながち少なくないと思うのだけれど、どうでしょうかね。ではまた次回に対面しましょう。


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