カモシカの死体、図々しい生者

二か月程前、だから五月の連休明けくらいだったけれど、近所の狭い河川にカモシカが死んでいた。豪快に死んでいた。河川といっても雑草が丈高く繁茂できるような浅瀬においてなので、その体はほとんど水に浸かっていなかった。だから通行人の誰の視界にも入る。見たくても見たくなくても。それは日常への挑発だった。どうしてよりによってそこで息絶えたのか分からないし、今更知り様もないけれど、ともかく僕はそのカモシカの死体に痛く感動したのだ。僕には腐敗嗜好が抜き難くある。あるいは微弱な死体崇拝というか、動物の死体を見ると血沸き肉躍るものがある。ただ自分から殺すことはしない。子供の頃から生き物の末路を精妙に観察する喜びを逸早く覚えていた。何かに魅せられていた。性的快楽に近い。死体特有の「無法」感、雄弁な沈黙、腐乱臭、あらゆる解釈を受け付けぬその物体性。死体には生者特有のあの脂ぎった卑しさがない。喧しさがない。権力意志がない。その消極性が却ってただならぬ凄みを滲ませる。

もう再三繰り返しているけれど、物質である事、わけても「生きる」という事は、否応なしに暴力的であることなのだ。「物質がある一定空間を占めている」ということは即ち「他の物質とその空間を共有できない」ということである。するとそこには必ず「相互排他性」がある。これはあらゆる物質に通底する根源暴力。空間は限られているので、常に「どけ、この野郎」という排他力を様々な形で行使し合う。「単なる物質」でさえこれなのだ。まして「生き物」においては共存共栄などありえない。生易しい理念などそこに挟める余地はない。生き物の多くはその「物質的排他性」に加えて、他の生き物を捕食する「再生産暴力」まで担っている。「どけ、この野郎、がぶり」と食ってしまう。なんとしても生き延びようとする。「種」を存続させようとする。どんな綺麗事を並べても、生き物はこの「暴力性」を否定出来ないし免れられない。だから世界は地獄になる。食う食われるの関係が常態化した地獄となる。これを免れるには「死ぬ」しかない。死体になって朽ち果てるしかない(さらに分解されると空間を排他的に占領しないで済む)。それゆえ「生き物」という存在類型は本来発生しない方が良い。少なくとも発生しないことで「暴力の行使・被行使」は避けられる。「痛み」は避けられる。僕が生き物の「繁殖」や「子作り」を嫌悪し否定する理由はざっとこんな所にあります。勿論何を言っても無駄だとも分っている。「生き物」という「生存媒体」の主体は「意識」には存在していない。生き物は「自分の判断」で全てを決めることはできない。

とにかく生き物はいつも図々しくて傲慢なのだ(そしてこの傲慢さに呆れながらも未だに生きている僕はそれに輪をかけて傲慢な生き物だ)。僕が死体に惹かれるのは、そこに非暴力性の象徴を見るからなのだと思う。まあこの分析は別稿でやりますね。

死体と一言でいっても、一様ではない。蠅がたかって蛆が湧いて毎日少しづつ腐敗・分解されていくなどの、そんな絵に描いたようなものではないのだ。死体は観念上のものではなしに、目の前にある現物なのだ。死体にもそれぞれ別様の運命がある。だから面白い。すぐに小動物に食い散らかされる死体もあれば、案外に原形を長く留める死体もある。断片化されてハゲワシに供される死体もあれば、すぐに火葬場で焼かれる死体もある。昆虫でもヘビでもイタチでも猿でも何でもいいから、死体に遭遇すると、毎日通って見届けてみるといい。大きいと尚いい。より劇的だから(本当は人間のものが一番見たい)。だからカモシカの死体は幸運だった。以後数か月散歩の度にカモシカ版の九相図を静観できると興奮を抑えかねていた。

けれども、翌日にはそれは綺麗に無くなっていた。世の中には「善良な市民」が沢山いて、すぐ事業者に報告して処分させたのだ。この速やかな対処。文句のつけようがない。いくら何を言ってもこっちが負けるに決まっている。近くに住宅もあるので腐臭が発生すると迷惑ですとか、感染症の原因になるとか、健全で衛生的な市民生活をおびやかすとか、処分する理由はいくらでも出てくる。絞り出さずとも出てくる。でも彼彼女らにとってそんな理由は全て二次的なものに過ぎない。とどのつまり死体を見たくないだけなのだ。都市風景は死体の放置を許さない。それはあってはならないものなのだ。死体はただ可及的速やかに処分すべき対象であって、悠長にその分解を観察すべき対象ではない。都市は原則として、死体の「視覚的排除」の上に成り立っている。誰もが我知らずその合意を与えている。あまりに生々しいもの、あまりに醜いもの、あまりに不潔なもの、あまりに暴力的なものは全て、「安定した市民生活」の敵である。それらは永遠に溶け合うことはない。死体嫌悪と死体排除を骨の髄まで身体化させている、そんな都市住民の「健康な暴力性」を前にして、一体僕はどんな事を言い得るのか。やはり何も言えないのだ。何を言っても愚者の遠吠えにしかならない。そこにおいては公共性・合理性よりも強い論拠は存在しない。存在してはいけない。今回もまたそのことを強烈に思い知った。

どうもありがとう。

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