「風狂」雑考

こんばんはクミハチです。水煮大豆を放り込んだ甘口カレーをYouTube見ながら食って、蛙どもが鳴きまくっているなか、書きはじめています(いったい蛙の合唱なんてメルヘン的な喩えは嘘で、もうずれまくっている)。

「風狂」とは何か、とこの頃しきりに考えています。単に考えているふりなのかもしれません。この語の妙な軽みと非人情味を僕は好きです。苦楽糾える人生の渦中にあって、「風狂」という不可思議語は魅惑の気配を帯びている。けれども今まさにお前は風狂に生きているのか詰め寄られると、決してそうとは胸を張れず、また風狂について原稿用紙五枚以内で要約しろと求められてもまるで覚束ない。せいぜい風狂という語感に生酔いしているに過ぎないと素直に白状します。だからほぼ正面から見据えるのはこれがはじめてです。要するに、僕がはじめて「風狂」と取り組まんとしているところに読者は現に立ち会っているわけですね。すごいですよ。

あいつは風狂な野郎だとか言うとき、何をいわんとしているのか、よく分からない。精神の平衡を失っている人のことなのか、風雅の境地に浸りきっている人のことなのか、分からない。どっちでもいいですよ。頭がおかしくても世間からは爪はじきにされるし、風雅三昧にあっても世間から爪はじきにされる。爪はじきというと随分乱暴に聞こえるけれど、ともあれどこか胡散臭げな眼でみられるわけで、すくなくと褒められはしない。紫綬褒章や文化勲章なんかくれたりはしない。

ぼくの大掴みの理想において「風狂人」とは、「快楽」の自由調達能力に恵まれた刹那的存在者を指します。大概において僕たちは、「快楽」の基準枠を周囲世界から半ば強引にあてがわれていますね。「勉強をきちんとやって立派な学校に行かないとあなたは絶対に幸福にはなれない」というふうに。「人間は結婚して子供をもってはじめて一人前だ」みたいなアレンジ命題も相当ポピュラーですが、とにかくこの「何々をしない限り」式の高圧的幸福談義を幼いころから呪文のように吹き込まれて人は「大人」になる。あ、ちなみに「幸福」は「快楽」の別名と思うので、ここでは使い分けしません。

何につけ人は「他者からいかに良く見られるか」に気を配るあまり、日々涙ぐましいばかりの労苦と散財を自らに強いている。「他者の眼差し」の為に一体どれだけの心的・物的リソースを投下してきたか、もはや計上するのも馬鹿馬鹿しいくらいです。この「他者」とは、普段から直接関係している親族・友人・知人であり、また架空の「世間一般」である場合もある。捉えようでは、「他者」とは途方も無く広い概念で、自らの関係している全ての周辺世界を「他者」と呼ぶことさえ僕には抵抗がない。「他者」とは一切の災厄の源でもあり、あらゆる享楽の泉でもある。良くも悪くも全ての出来事は他者由来なのだ。「風狂人」とは、現存在として、この他者世界を自在に生きることを決めた者のことだ。風狂人は、公式に快楽認定された物事に拘泥する気は端から持たない。これでは割にあわないことを知っている。「男の幸せ」だとか「女の幸せ」といった外来の押しつけがましいパッケージを後生気に掛けるほどの野暮はない。「所有の快楽」も下の下だと切り捨てる(最初は痩せ我慢であるが)。ハサミも自動車も、わざわざ所有しなくてもいい。必要となれば人に借りればいいし、車も乗せてもらえばいい。持つことの欲望には上限がなく、その軍拡競争じみた所有競争に巻き込まれることの恐ろしさを風狂人は知り過ぎている。とはいえ風狂は、欲望の否定とははっきり違う。似ても似つかない。欲望の抑圧を「禁欲」と呼ぶなら、「風狂」は欲望の自在充足だ。風狂は「たかが欲望充足」のために辛い努力をしたくない。単にそれだけのこと。面倒くさいことや退屈な作業に汗水ながすのが嫌なのだ。とかく土性骨が怠けものなので意に染まぬことはつくづくやりたくない。そのくせ快楽は自由に享受したい。だから、人々に迷惑をかけたり依存しまくるのも平気で、食べ物をもらうのも大好きだ。蔑視や小言に慣れている、どうかするとそれを誇りに感じている節さえある。欲望に対して尋常でないほど柔軟なので、世人は35年ローンを組んでようやく一戸建てを入手するが、それに相当するだけの効用をたった一念の下に得られると風狂人は嘯く。近くの河川敷に寝転がってここが自分の庭だと思い込めばこよなく幸福なのだ。どこまでも歩くのが好きで、大地は自分の庭で空は自分の屋根だと心の底より信じ込める。思い込むという力量において風狂人の右に出るものはない。それは並大抵ではないから、常人の顰蹙を通り越してついに尊敬を勝ち得えかねないほどだ。風狂人による想像世界は半ば「実在」と変わらないばかりか、しばしばそれ以上であるので、セックスにも娯楽遊戯にも事欠くことはない。年中頭のなかに想像上の恋人(イマジナリーラバー)が微笑を湛えており、抱いてほしいときはいつでも抱いてくれるし、やりたいときはいつでもやらせてくれる(僕の相手は勿論男でイチモツも立派だ)。冷たい寝床で淋しい気分になったときは一人二役を演じながら我が身を激しく慰撫する。その迫真の「まぐわい」の一部始終を普通人に見せたいくらいだ。知的快楽は図書館でふんだんに満たせばよい。一文無しでも世界中の名作を堪能できるし、その叡智の分け前に与れて余りある。学問や教養を積むのに金はかからない、という一事を人々は知らなすぎる。返す返すも愚かなことだ。

かように風狂人にあっては、自らの裁量、自らの自由意思で、「快楽」を縦横無碍に得ようとする。なに一つ手元にない丸裸の分際なのに。いずれますますこの風狂が昂進したとき、食糧がなくても食の効用を得、住む屋根がなくても住む効用を得る、そんな存在者になれるに相違ないけれど、いまの僕はその境域に憧れることしかできない。

「風狂」は常時、刹那的現存在を生きている。一年後や一か月後はおろか、明日のことさえ憂いはしない。けれども真個の風狂にあっては、生年百年に満たぬが千載の憂えを抱く、というふうな抹香臭い嘆きはとうに忘れ去られ、風狂の内にあるのは只今現在の享楽だけである。

だいたい僕の風狂人像はこんなところです。痩せ臑の毛に微風あり更衣(与謝蕪村)。どんな心境にありながらも大いなる至福にいつでも与れる、それが風狂人の繊細です。お金がないから、はたまた性的伴侶がいないから自分は不幸なのだと決めつけてやまない、コチコチの「俗人」とは心的構えが違う。世俗で通用する快楽基準の関節をぼきぼきに折り倒して、その都度代替不可能な快楽を融通無碍に享受する、それが風狂の作法です。もはや言わずもがなですが、風狂人は決して脱俗的なのではありません。俗世界の恩恵を我が儘に利用し尽くす一方で、俗世界では普通無視されている様々な快楽を進んで見出そうとする。それはたとえば、微かな虫の音に傾聴する快楽でもよいし、古い流行歌をくちずさむ快楽でも、かつて見かけた美しい青年の記憶を反復する快楽でもいい。人々が今どんな流行の幸福アイテムに血道を上げているかなど、風狂人のてんで知るところではない。公認印の下世話な好奇心に引きずり回される有り様は、仮に幸福であっても安定を欠くこと甚だしい。そこに風狂特有の興趣は起こり得ない。風狂人は自分固有の快楽に沈潜し、その堪能にかけては達人であり、だから「人目」など涼し気に黙殺できるのである。気がつくと僕らの内面に喰い込んでいる、あらゆる幸福基準、全てのぶしつけな物差しをこの際へし折って、風狂の作法をまず真似てみようとするのも一興と思うけれど、どうですかね。所有や地位の競争、薄ら寒い幸せ芝居のせいで皆実はけっこう心労しているのではないか、と僕は思う(どうでもいいので心配はしていないけど)。自分が成功者であり平均以上に幸せだと人々に思わせる努力も、これでなかなか大変ですから。それに虚勢の後ほど悲しい気持ちになる。

風狂についてはまだまだ試論の域をでないし、ところどころの矛盾をあげつらいたい向きもあると察します。掘り下げれば掘り下げるだけ、自分の非風狂性にウンザリして再び自己厭悪に陥る。けれど書く途上なにか大きな足枷から解き放たれている感覚もあって、心が豪快になった。ではまた。

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