「殴る作家」を通して考える

西舘好子『修羅の棲む家』(はまの出版)を昨日読んだ。小説家で劇作家の井上ひさしの元妻だった人が書いた本。告白録とも読めるけれど、人の記憶は往々にして完全でないことと、そこに物語の入り込む隙が多分にあることを思い合わせれば、むしろ「私小説」と呼んだ方がしっくりくる。そこには、井上との新婚生活から家庭内暴力、自分の不倫の末に離婚へと至る修羅場の顛末が「赤裸々」に綴られている。読中、僕の勝手にこしらえてきた「井上ひさしイメージ」はレーニン像さながら一気に倒壊してしまった。執筆がはかばかしく行かない時の苛立ちを度々妻への暴力に転化させたこと、同居する義母義父への酷薄な嫌味、息子を溺愛する実母との歪んだ愛着関係、流行作家としての影響力を駆使して本書の出版妨害を工作していたらしいこと。晩年の写真から自ずと知れるあの牧歌的な人物像をことごとく裏切る挿話が次々出てくる。僕は決して彼の熱心な読者ではなかったけれど、この偶像破壊の衝撃は一通りではなかった。素朴な愛読者に至っては、腰を抜かす以前に、そもそも信じようとさえしないかもしれない。それくらい凄絶な私小説だった。

作家というものが概ね変人奇人狂人の類であることは致し方ないとしても、この本に書かれている内幕は冗談としては受け流しにくい。けれども「高名な作家」には大抵「愛嬌」ともいうべき奇妙なベールが掛かっていて、「作家だから多少の逸脱は許されるよな」みたいな承認をこちらから与えている節さえある。この不思議な合意が結果的に「作家」のパブリックイメージをいつもギリギリのところで保護してきた、とは言えないか。確かにある作家の致命的な名誉失墜は、信者的読者にとっても出版社にとっても親族にとっても、好ましいことではないのである。こんなおのおのの思惑が相俟ったとき「作家免罪符」は作られた。だから作家のどんな振る舞いも「破天荒」と称して笑い過ごしたりする。その下にどれだけ深い傷を受けた人間がいるかなど、考えない。敢えて同情しない。それが想像力の枯渇なのか麻痺なのか分からないけれど。思えば当たり前だが、身内にとっての「作家」は、ひたすら生々しい個人存在である。「愛嬌」のベールなど申し訳程度も纏っていない。そこで「天才なのだから多少のわがままは仕方がない」とか「作家は大体そんなもの」などと言わても慰めにならない。そんなの堪ったものではない。

そういえば、夏目漱石も死後「文豪」として神格化される一方だけれど、家庭内では神経過敏の暴力夫であった。「デカダン作家」にとって薬物中毒や不倫や育児放棄など創作の「肥し」でしかない。瀬戸内寂聴(晴美)なども、冷静になって見れば、実子を捨てた過去を創作のネタにし続けて来た「不道徳作家」と言える(彼女の場合、自らそれを認めて開き直ることで「愛嬌」の保護膜を作りだしている)。幾重ものベールを剥いてみればどんな作家も生々しい一人の生活者に過ぎないことが分かる。この「生活者としての作家」を度外視したあらゆる「作家神話」を、僕は警戒する。

畢竟するに僕は、「作家だから」というものの見方にずっと違和感を抱いてきたのだ。作家だろうが普通人だろうが、その周囲にいる家族は生身の人間で、血が通っている。殴られれば体は腫れるし、食わなければ飢えて死ぬ。超人的な想像力に恵まれた作家がそこに想像が及ばないはずはない。してみると、作家自身が自分を何かしら「免罪」していない限り、あんな横暴は振る舞えないのだ。周りの崇拝者や茶坊主よりずっと前に、作家自身がすすんで自分を神格化させている。己の「わがまま」を特権化できると勘違いしている。一日の大半を白紙に向かうストレスは尋常一様ではないと察するけれども、このストレスの捌け口を家族に向ける作家を僕は嫌悪する。井上ひさしだけでなく、こういう手合いは作家に限らない。身も蓋もない物言いになるけれど、これは「夫」に多い。「男」に多い。鬱憤を周りの弱者に向けたがるのは圧倒的に「男」に傾いている。家庭のゴタゴタの原因は大体「男」が作る。そもそも「男」はどうしてこんなに殴るのか。これは一概に答えられない問題だけれど、「男」と「暴力」の親和性を今更疑うことは出来ない(僕自身が男なので、男ばかりそう悪くは言いたくないけれど)。ただ近頃では、男性のDV被害も相当数あるとは言うから、「男といえば暴力」の認知図式そのものには常に疑義をはさんでいかないといけない。にもかかわらずそうした先行イメージを打ち消すのに大変な努力を必要としてしまう。そこに生物学的な裏付けがあるのか、DV被害の統計はどれくらい信用できるのか、今の僕にはよく分からない。経験上「男の方が横暴」だと思い込んでいるに過ぎないのだ。この型通りのイメージがいかに杜撰でありうるか、反省しないといけない。

ともあれ僕は、人を殴らない男が好きです。男の中の男と呼べるのはそんな男だけだと愚直に信じています。

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