普遍的で虚しい欲望「ここではないどこかへ」について

先週から抑鬱期に浸りつつあるから、読むことにもいまひとつ身が入らないし他人の出す音も数倍気になる。今日は鼻をすする音に始終イライラしていた。また雑音恐怖が発症して長く続くのは、堪らない。もう堪らない。

僕は最近、アルトゥル・ショーペンハウアーに心が惹かれている。彼は「厭世哲学」の取締りみたいに語られることが多いけれど、実生活では健啖家で女好きで余程アクの強い男だったらしい。『意志と表象としての世界』はもっと広く文庫化してほしい。『自殺について』『知性について』『読書について』等の論考集は、この主著の補遺・余録として書かれたものなのに、主著よりも多くの愛読者を獲得していている。肝心の主著はほとんど読まれていない。訳書もそれほど多くない。彼の思想は主著にずっと強く滲み出ている。だから岩波文庫から出されるといい。そして例によって最初の数十頁で読みあぐねた読者がブックオフに売り払い、それが一〇八円コーナーで並んだところを僕はすかさず買いたい。もう彼の思想は流行らないのか。意識があることは苦しみに他ならないことをあれだけ鮮やかな論理で示してくれた哲学者を、僕は他に知らない。抑鬱期はそんな人の書いたものの方が琴線に触れる。癒される。処方される抗鬱剤はかなり眠たくなるにもかかわらず効果が毛頭感じられないので、服用する気になれない。プラシボ効果さえ得られた例がない。動画サイトでモーツァルトを再生している間はやや気分が華やぐけれど、ずっと聞いているとウンザリしてくる。ひとりだけ陽気すぎるぞお前は。いい加減にしろ。

ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』に、人生とは一個の病院であり、そこではひとりひとりが互いの寝台を羨み、それを変えてもらいたい欲望に取り憑かれている、というふうに続く息苦しくも美しい作品があって、この頃ではこの病院の比喩がいよいよ生々しく実感されてくる。骨の髄まで染み入る。これは詩だから、フランス語原文ではもっと隠微な不穏さを孕んでいるのかもしれない。僕は読めないから想像するしかないけれど。

およそ人間であるということは、「ここでなはないどこかへ」の焦燥的欲望を死ぬまで持て余し続けることに他ならない。こんなふうに格言風に語ることが僕には段々恥ずかしくなってきたけれど、これは強い確信であり、だいたい世の中の文学や映画でも、「倦怠」を主題にしたものはとても多い。多かれ少なかれ人はずっと前から飽き飽きしている。たとえばフローベールの『ボヴァリー夫人』で描かれる倦怠などはその典型中の典型であり、二〇世紀に書かれた不倫小説のおびただしい凡作はこの作品のバリエーションに過ぎないとさえ思う。こう書いた後に気がついたのだけれど、これは、どこかの高名な文芸批評家の受け売りに過ぎないのかもしれない。全然自覚がなかったけれど、そんな直感がある。いろいろ書いていると、こんなこと間々ありますよ。えらそうなことを書いている連中も案外どこかで聞きかじったことを繰り返しているのに過ぎないのだ。もし今後、自分の意見や感想だと信じていたものが全部そのまま他人由来だと判明したときは、素直に表面するつもりです。不勉強を心から恥じる者として、これは必要な覚悟です。

あらゆる表現領域において、ファンタジーや冒険というジャンルが支配的な位置を占めているのも、「現実」が無味乾燥で詰まらないし、苦しいからだ。子供も大人も「ありえない夢の世界」や「血沸き肉躍る冒険世界」に浸っているほうがずっと楽しい。絶対に楽しい。間違いなく楽しい。「現実」というのはいつも痛いことがあるし、嫌な奴と顔をあわせないといけないし、債権者や詐欺師やがさつな人間で満ち溢れているし、数秒先にはどんな災難に遭うか誰にも予想できない。誰もが互いを警戒し妬みあい蔑みあい汚い唾を吐きかけあっている。お金儲けに熱心で、家事に追われ、消費に勤しみ、休暇にさえ何か殺伐な空気を持ち込んでいる。こんな落ち着きがなく、残酷で乾いた世界は、よほど鈍重で厚かましい人間でもない限り、早晩耐えられなくなるに決まっている。「人はみな泣きながら生まれてくる」(『リア王』)生まれたその瞬間から生身の欲望的肉体を、死ぬことにも苦しみが伴うこの肉体を引き受け続けなければならない。「現実」に食あたりするのも当然であり、「倦怠」に苛まれるのも当然だ。だから心配には及ばない。その「倦怠」は決して特異な反応ではない。むしろ「普遍的」な反応といっていい。倦怠の裏面には底知れぬ「不安」がある。我が身やその周辺にいつ何が起こるのかも知れないこの世界の恐怖に人は、生身のままでは到底耐えられない。あまりの深淵にめまいを起こす。数秒後に脳溢血で倒れて半身不随のまま一生を送ることになるかもしれない、両親や子供が交通事故で突然いなくなるかもしれない、勤めている会社が倒産してやがて路頭に迷うかもしれない、死んだ後に「永遠」の灼熱地獄に送られるかもしれない。これから我が身が被る「禍」や「苦痛」は何ひとつ分からない。だから本当はみんな気が狂ってもおかしくないのだけれど、あまり派手に気が狂うことは生物の繁栄上不都合なので(遺伝子の自己複製に寄与しない)、「世界にほとんど飽きている」という心的状態がその「不安」にかぶさってくる。応急処置的に。

人類史をめぐる起源神話や民族神話ひいては宗教の数々は、きっと、この種の「不安」に起因している。とかく人は「無意味」を蛇蝎の如くに嫌う。無意味な受難はもっと激しく嫌う。偶然そこに存在しているだけ、という認識を人は極端に恐れるのだ。これは人間存在を考える上で大事な観点です。人は、いまここに自分(自分たち)存在している「理由」を、嘘でもいいから拵えたい。この願望の集合的産物が神話であり、そこでは必ず、なぜこの宇宙が存在し、自分たちが生成したのか、様々の筋書きを以て説明される。

人間の表現活動の動機は一見いかにも多彩多様に思われるけれど、とどのつまりは「詰まらない」のであり、「虚しい」のであり、「苦しい」のだ。それよりも「高尚な動機」があるとしても、その根底には「ここではないどこかへ」という地獄の絶叫が絶えない。そういえば僕の好きな中島みゆきも「此処じゃない何処かへ」と激しく歌っているし、人類史上に絶えることのない無数の詩人たちも、結局のところは「現状」に不安であり、不満であり、この寄る辺のない苦しみを様々の作品に託して何とか気を紛らわして生きてきた。互いにどれだけ過激になれるか競い合っているようなパンクロッカーにしても、その主張はおおむね「何もかもがムカつく」ということに帰着する。だからここではないどこかへ消え去りたい。いますぐに。でも仮に「ここではないどこか」になんとか行き着いたところで、不安や不満には依然として苛まれ続けるだろうことは大方想像が付く。何を叫んでも、空しい足掻き。この散文も足掻き続ける。何も変わらないと知りながら足掻き続けることの虚しさは、類がない。

どうもありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?