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映画「主戦場」を観て

(はじめに 昨日の京都アニメーション放火事件でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、ケガをされた方の早い回復完治を願っております。)

日砂恵ケネディ
朴裕河(パクユハ)
渡辺美奈
杉田水脈
櫻井よしこ
山本優美子
尹美香(ユンミヒャン)
イン・ミョンオク

私の住む山の町にもやっと「主戦場」(ミキデザキ監督)がやってきたので早速、観に行ってきた。るんるん。

感想ーーー

私は「主戦場」に登場していた男性達の発言には、さして注目できなかった。どうしてかというと、答えは簡単、私も「男」だから。常に加害者側にいる「性」であり、自分を当時の価値観の中に放り込んだと仮定したら、これから書く考えと同じ発想が出来るのかと問われると、この「従軍慰安婦」問題を語る資格があまりないと思うのである。
その視点で見ると後半で登場した元兵士以外の男達の発言はなんだかウソくさい。

主戦場のテーマは、太平洋戦争以前から終戦まで存在していた「従軍慰安婦」。ここでの主題は、朝鮮の女性について、人として女としての人格を剥ぎ取る「性奴隷」で「強制連行」が実際あったのか、それとも公娼が制度としてあった時代の「戦場娼婦」たちで「自発性」のあるものだったのか、をメインのテーマとし、そこから派生するいくつかの問題、アメリカ地方都市での慰安婦像の建立と撤去、テキサスオヤジの発言、慰安婦問題に対する日本政府の見解(河野談話)の今日的変遷、など監督の視線から、強制連行はあった派vs強制連行はなかった派、両サイドの人たちにインタビューをする、という仕組みをとった物だ。

この映画についての詳細に分析しているnoteはこちら
「映画主戦場を中立的立場から見てきた件」
論点を図式化していて、この映画で議論されている対立点の構図が見えてくる。

また、秀逸な感想だと私が特に関心したのは
「主戦場ヤバイ政治エンターテイメント」

私はこう思う。
あの戦争の、後世に生きる者としての私たちが、歴史を判断するときに大切なのは、例えばこの映画で言うと、強制があったなかった、性奴隷だった娼婦だった、少女像の世界各地での建設、河野談話と日本会議など、これら現象を把握するのは「モノ」(substance)であり、では観てきた出来語について、その奥にいったいなにが隠されているのかを考えるのが「コト」(event)という思考方法なのだ。(「失敗の本質」 より アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの考え)
多くの方へのインタビューが繰り返されるこの映画に隠されている「コト」とは、戦争で犠牲になるのは常に底辺に這うように生きている人たちであり、ここでいえば植民地化された朝鮮の女性だったのではないか。あったなかったの出来事の向こうにいる被害者たる女たち、彼女らは(私と同じ)名もなきおそらくは貧しき市民なのだと、そう私はとらえた。どうだろうか。

また、こうも考えた。
私の記事「靖国神社を考える2」の中でも書いたが、あの戦争で起こった全ての事象や事件は以下の2点に整理されると思う。
1,重層的で多面的であり複雑に絡み合っている
2,皆、被害者でもあり、加害者でもあり得る。
それはこの従軍慰安婦問題でも合致する。個々のケースではなく、集合体で見ると、時として「性奴隷」でもあって、また時として「戦場娼婦」でもあったのだろう。太平洋戦争の時は「被害者」であった韓国もベトナム戦争では「加害者」だったとも映画の中でデザキは触れていた。戦争中は加害者側だった日本人も、終戦後の満蒙開拓団の引き揚げ時、多くの強姦や殺人、集団自決があったと聞く。シベリア抑留も言わずもがな。
その視点からこの映画を考えると、デザキ監督は、絡み合ったこの「従軍慰安婦問題」つまり、強制連行、慰安婦像、河野談話、日本会議、それらの事象を知恵の輪を外すように一つ一つときほぐしてくれ、可視化された「モノ」として示してくれている。
そこがすばらしい。
繰り返すようだが、現象をまず捉えて(モノ)、そこでどちらかに加担するのではなく、次にその奥にある本質を見抜くこと(コト)つまり出来事や事件の後ろに何が隠されているのかを考えるのが大切で、この映画をみて帰宅した私たちの宿題なのだろう。

さて文頭に挙げた名前は、この映画でインタビューを受け発言をした女性たちだ。彼女達の発言は、左右どちらにせよ、興味をもって見ることができた。なかでも私は朴裕河(パクユハ)に注目できたのが、この映画を観たもうひとつの成果だといえる。映画の中で、抑揚をつけない、淡々として静かな話をしていたこの女性が気になった。

朴裕河(パクユハ)
韓国 世宗大学日本文学科教授

 ここからは【日記】

今、読み進めている「金子文子 わたしはわたし自身を生きる」のあと、パクユハを読むことにしよう。「帝国の慰安婦」「和解のために」が気になる所だ。
そう言えば今読んでいる金子文子も、幼少時代を朝鮮で過ごしていた。忠清北道芙河。日鮮雑居地。祖母と叔母にひどくいじめられ極貧の生活を強いられた文子に、あるとき近所の朝鮮人の母娘が「麦ご飯ならあるから食べにおいで」と声をかけてくれ、文子は初めて人の優しさに触れ、号泣したとあった。
映画防備録「東京裁判4Kデジタルリマスター版」
大岡昇平「野火」  

読書+映画=太宰治お伽草子舌切り雀のじいさん的幸せ 

「おれでなくちゃ出来ない事もある。おれの生きている間、おれの真価の発揮できる時機が来るかどうかわからぬが、しかし、その時が来たらおれだって大いに働く。その時までは、まあ、沈黙して、読書だ」(笑)