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靖国神社と遊就館から考える・・・その3(おまけつき)


今日日(きょうび)の言論界をブルブル揺さぶる論客、古谷経衡(ふるやつねひら)のTwitterではこんなことがつぶやかれていた。

この兄ちゃん、いつも突拍子もないツイートを連発するので読んでいて楽しいのだが、この強面ツイートに対して、誰ぞやのフォロワーが「おそらくご意見の日本と韓国を入れ替えれば意味が通じると思います」と返していた。古谷の考えの方向が逆だと批判的に指摘しているのだが、私はここでちょっと、彼らの1,5メートル上空から俯瞰させて貰って、この件を少し考えてみたい。

前回の記事で私は、靖国神社と遊就館を訪れての感想を例にして、
1,歴史認識や近代歴史上の出来事を理解するためには、日本人の皆が受けた民主主義平和教育、それ自体を規範、指標(メルクマール)にして判断しよう。
2.単一方向からではなく、こんな考えもあるしあんな考えもあるという多面的重層的な考察をしてみよう、右でも左でもないセンターに立とう。
そう書いた。

上の古谷のツイートで彼の行った手順を、こうだろうと察してみる。
まず、散見する嫌韓メッセージで読むことができる「日本を徹底的に悪罵することで自らを正義と確信する韓国のひとたち」というレッテル貼りに登場する両国の国名を意識的に一回入れ替えてみる
すると「韓国を悪罵することで自らを正義と確信し安心する日本人」となり、うんなるほど逆も真なりと彼は考え、続けて自嘲的に強い口調のメッセージとして修飾しツイートしたのだろう。するとそのツイートを読んだコメント氏は、再度国名を入れ替えろと指摘しているという、まあよく考えると国名の入れ替えを何回もしているだけという単純な図式がみえてくる。
まずは古谷の考えに私は同感する。人を批判することで自分が安住しようとするのは民主主義ではない。「韓国を悪罵することで自分を安住させる日本人」であってはならないし、国名は入れ替えてはならない。人の悪口を言うことで自分を弁護してはならない、それが自立した日本人の姿だと思う。もっと言うと、国名を入れ替えて考察し熟慮してみると、結果として国名を入れ替えてはいけないという価値判断が産まれてくる。

私は思う。
このツイートでは国名の入れ替えに注目してみたが、何らかのメッセージなり文章を読むとき、こちらと相手を入れ替えてみると、時になるほどと合点がいく場合があるのではないかと、そう発想する事、その技法を持つ事、それ自身が大切なのだ。それがセンターにポジションを置くという事だ。「両論併記」と言ってみてもいい。自分の頭の中で一回、自分の立ち位置を入れ替え、被害者と加害者を入れ替え、国名を入れ替えて、考えてみる。それが不動のセンター、真のセンターポジションなのだと言いたい。おれが、いや私が前田敦子のファンだから言っているのではない。
私達日本人は75年前、有史以来の最大の失敗?「敗戦」を経験した。310万の同胞を犠牲にして、乗り越えて、戦後日本が再建された。そしてその中でまがいなりにも平和教育が徹底され、私達の骨の髄までしみこんだ中核となった。(ここでも逆から見ると、日本人310万人の犠牲の向こうには約2000万人のアジア人の犠牲者がいるのだ!)
思えば、その中核の正体は、確か「相手の立場になって考える」という一言ではなかったろうか。皆十分承知なのだろうが、周辺諸国との軋轢のニュースをみると、どうしてもやっかいな「民族意識」が頭をもたげ思考が一方的になってしまう。幾重にもレイヤードされた、その下着が見えてこない。
私はこの記事で敢えてここを、つまり歴史問題を考える時も双方向の考察をしようというセンターポジションに立とうと言いたいのだ。それが日本人の民度の高さを証明できる唯一の手段なのだ。
ところがやっかいなことに、小倉紀蔵も書いているが、一つの例として、竹島は韓国の領土ではないかという日本の学者はいるけれど、竹島は日本の領土ではないかという韓国の学者はただの一人もいない、という現実的な難しさがある。竹島の領有権について小倉は政治の介在を指摘しているが、私は日本と韓国の民度の差だと考えたい。

純粋に学問的見地から言って日本の学者の見解に複数の論が存在しうる問題に関して韓国に於いてはただ一つの論しか存在し得ないと言うことは、そこに何らかの政治性が介在していると考えるのが妥当であろう。「歴史認識を乗り越える」小倉紀蔵

不動のセンターポジションから思考せよ。言いたいのはそれだけ。この続きはいつか股ね。こんな事ばかり書いていると若い人に嫌われちゃうからね。

さて、本当はここからが本題の筈だったのだが、先日新聞をめくっていると、こんな記事があった。

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そして私は「日本近代文学館」という素晴らしい施設が東京にあるのだ、と言う事実を知って、自分の田舎度が半端ねえことに愕然としている。

太宰治。ちくわ会長的には、若い頃は「桜桃」が一番だと思っていたけれど、お年を召した(笑)今になっては「東京八景」だと声を大にして言いたい。ややもすると作品の構成としては竜頭蛇尾のきらいも指摘されてはいるが、読者を前半でこれでもかと落としておいて、後半で一挙に盛り上げ太宰自身が東京名所になってしまうという、、、まあ「東京八景」の話はまたのちほど。
ともかくも上に書いた、日本近代文学館「太宰治生誕110年 創作の舞台裏」は「通をもって任じられている方にも意外な発見を楽しんで頂ける」と紹介されていたので、通?え?オレのこと?これはもう行くしかあるまい。

記事タイトルの写真は4月12日現在の桜。私の住む寒村では二、三分咲きと言ったところ。 
まだまだ朝夕の寒さは抜けないけれど、でも、やっぱり、春は、いい!