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靖国神社と遊就館から考える・・・  その1

(この記事はあくまで私の歴史認識を整理し開示したもので、個人的主観に基づくものです。誰をも攻撃したり誹謗中傷する意図はありません。)

私は前回の記事「靖国神社さんに質問があります」でも書いた通り「失敗した戦争の、失敗ざま」について、為政者や将官ではなく、むしろ下級兵士兵隊たちはどう凄惨な体験をしてきたのかを読書勉強してきたつもりでいる。その中で生まれた疑問や矛盾を解き明かそうと、今回、靖国神社および同敷地内の施設「遊就館」へ行って、英霊たちに直接聞いてみる事にした。以下はその報告と感想であるとともに、日々の読書とわずかの現地踏査から得た、自分なりの考えを整理してみようと試みた物である。
本人つまり私は、極めて、まじめである。すごーく、真剣なのだ。おじさん、やるときは、やる! 以下、覚悟して最後まで読んでいただきたい。
(あ、でもつまらないから無理して読まんでもええよ。見出しだけ見てね)

1,街でスマホゲームしていた人達に失望した話

最近のエピソードを書こう。
日頃は滅多に街へ出かけない私なのだが、ちょっとした用があり駅前の繁華街へ出かけた先日の事件、というか光景。
車をコインパーキングに置いて、徒歩で駅前のデパートへ向かった。大きな交差点とその先に延びる歩行者用の大きな道あたりにさしかかったところで、私は異様な風景を目にした。
その交差点を中心とした一帯では何十人もの人たちが皆、立ち止まったままスマホを覗き込んでは指を動かしているのである。道路の脇、店の前、植え込みの横、そこらじゅうでだ。若い人たちだけならまだしも老若問わず、概ね30人くらいの男女が皆、無言のままたたずんで無心にスマホをいじっている。私は少し離れて、気持ちの上では地上数メートル上空から、やや俯瞰して見てみると、まさにそれは異様な一角をなしていると言えた。
周辺に迷惑掛けている訳ではないので平和な光景と言えばそれまでだが、絵図は異様と言えば不気味でしかない。なぜなら数年前まではなかった光景だからだ。
実は1年ほど前、太宰治ゆかりの三鷹を訪れた際にも、駅横の鉄橋でたむろしていた集団に出くわして驚いたことがある。その後、会社で若い友人に聞いたところ、おそらくはポケモンGOというスマホゲームなのでは、との回答。多分今回も同じなのであろう。つまり、彼らが集まっているあたりに「なんか出る」らしいのだ。目前の彼らに聞いてはいないので真意は不明だが、その時私はなんだか得体の知れない怒りがこみ上げて来た。いや、得体は知っている。ズバリ「お前ら、いいとしこいて何してん?ほんとに。街に出てきてまでスマホゲームしてんじゃねえよ。いいかげんにせーよ」まあ、街に出ないとできないゲームらしいのだが。(ポケモン好きな読者さん、ごめん)

その光景を目にした同時期、私は、終戦後の戦犯関連の読書からの流れで連関した「靖国神社」という言葉の重みを知って、小林よしのり氏「靖国論」「いわゆるA級戦犯」「新戦争論」あたりを読んでいたところだった。
目前で繰り広げられているスマホゲームに興じる彼らを眺めていると、何だか小林氏が民族の誇りを取り戻せと切に訴える、国を憂う気持ちとつながってきて、彼の主張もわからんではないと思い始めてしまったのである。
小林よしのりは、こうして君たちがスマホの画面をのぞき込んで下ばかり向いているうちに、自分たちの領土領海や、明治以後の近代化と共に作り上げてきた矜持が、近隣の国に否定され攻撃され浸食されていってしまうぞと訴えている。東アジア近代史における日本の存在とその歴史を再度学習して、自分たちの民族の誇りを取り戻し、理不尽な攻撃を排除せよと必死に訴えているのだ。週刊誌に漫画という受け入れ易い媒体で教示し、曖昧な現代日本に警鐘を鳴らす、小林氏の必死な訴えも気持ちも、こうして目前の光景に失望した後では、あながち否定はできない。それどころか、「靖国論」を彼らの手に押しつけ、読ませてみたい気にもなってくるから不思議。

このあと本題に入るがnuricoさんからいただいたコメントへの感想として、結論を先に言っちゃうと、今回靖国神社を訪れ遊就館を見学して、二つの新たな疑問を持ってしまった。小林よしのり「靖国論」の中では、靖国神社の存在は、他の神社と同様に日本人だれにでもある八百万神(やおよろずかみ)への「一般的普遍的」な畏敬から来ると説明されてはいるが、靖国が戦没者の英霊を祀るという「選別された優等な」神社であることの差分を説明されていない気がする。私にはその「差分」こそが一番大切だと考える。
もう一つには「遊就館」に行って分かったのは、日本にある他の戦争施設とは違って、良い悪いがはっきりしている、敵と味方がはっきりしている。つまりやむを得ず戦争をして力及ばず負けてしまった日本軍、という理解しやすい施設だったという事だ。良いか悪いかではなく、おそらくは他国の戦争博物館と基本理念は通底しているのではと思ったりもする。そこら辺を中心に整理しながら書いてみたい、ていうか、もう言っちゃった。(でも、この先も読んでね)

ただし私も、靖国神社を畏れ敬い、戦争で斃れたお父さんおじいさんたちに深く頭を下げる日本人の一人である。おとしめる意図は決してない。そもそも私はいたって信心深いのだ。前回の礼拝の際に買った、いや、分けていただいた御守りなどはその神社名の示すとおり「最強おまもり」なので、鞄にぶら下げて「えへん、どうだい!」て偉ぶってる毎日(笑)。

つづく