【突貫全訳】宋楠の別れの時

注意書き

ナンソン引退記事を突貫全訳したものを、SkatingChina様の許可を得て掲載します。
このインタビューの全ての著作権はSkatingChina様に帰属します。
深刻な誤訳はないという程度にできていると思いますが、いかんせん駆け足で訳したので、気持ち薄目でご覧ください。
また、中国語を母語とする方や中国語のスッゲー人から解釈について訂正が入った場合は、そちらを優先してご理解いただけると幸いです。

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宋楠の別れの時

元記事:SkatingChina「宋楠的告別時刻」(←画像と動画マジで必見だぜ!)
訳した人:Twitter@sano_shaling 微博@佐野sano沙綾saya

人物:宋楠、中国男子シングル選手、2010年世界ジュニア準優勝、2011-12グランプリシリーズ中国大会・フランス大会メダリスト、2012年全国冬季運動会ショートプログラム優勝、2013年冬季ユニバーシアード金メダリスト、2014年四大陸選手権銅メダリスト。怪我による低迷期を経験し、2016年の四大陸選手権の後、彼は選手生活を終わらせることを計画しはじめた。

1.「引退させられる」から引退宣言へ

四大陸選手権の翌日、宋楠が引退するという情報が突如として微博(訳注:中国版Twitter)を駆け巡った。スケートファンの反応は哀惜が驚愕を上回っていた。フィギュアスケート界は小さな集団で、選手の健康状態は秘密ではない。シーズンの最初から、密かに「宋楠は引退するのだろうか」と議論していた者は少なくない。その「正式な宣言」の影響を最も受けたのは宋楠自身だった。

「指導者(訳注:コーチとは分けて書かれているので、チームのえらいひとという感じだと思われます)は一目見て『えっ、お前行動早すぎるよ、もう宣言したんだって?誰にも相談しないで』と言った。自分でも不思議だと思った。僕は最後の一歩をどの道へ向けるかまだ決めてない、何も決めてない。あのニュースを僕も見たけど、宋楠がどう言ったとも書いてなくて、全部彼(記者)の視点から色々な問題を説明していた。だから僕も指導者に説明して、彼も状況を分かってくれた。」

この誤報は世界選手権の前に発生したため、ナショナルチームの雰囲気にも影響を与えた。ただし、宋楠はこの件について憤慨まではせず、それよりもある種の疲労感を覚えたという。日常生活をかき乱されたわけではないからと、彼は責任を追及しないことにした。

「大したことじゃないと思って、切り替えて(訳注:原文「放開」は解き放つようなニュアンス)練習しようと思った。そしたら氷上で躓いた。その時は本当にがっかりしたよ。まあ治療を続けようって自分を慰めた。こんなに多くのことを経験して、それも全部過ぎ去ったんだから。」

そうだとしても、宋楠は当時、決して四大陸選手権を最後の試合として演技したわけではなかった。「一回出れば一回減る。僕は一つ一つの機会を失いたくなかった。だからやっぱり出ようと決めた。試合の前は練習が辛くて、規定外の、持ちこたえるのが難しめの動作を少しやったとき、自分が完全に耐えられなくなっていることに気づいた。」フリープログラムが終わった瞬間、彼の気持ちは落ち着いていた。「あまりリンクから上がりたくなくて、その時はまだ引退について考えてなくて、ただ名残惜しかった。」

リンクからミックスゾーンへ向かうわずか一分間の間で、当時の雰囲気と感情の影響を受けて、宋楠は引退に対して感性的な想像をし始めた。自分は休息を欲している、人生の次の段階に行きたいと、彼は強烈に感じていた。怪我はコントロールできず、もう普通に試合に出ることはできないと分かっていた。怪我を抱えてよりよい成績を求めるより、今の彼はより自分の身体を気にかけていた。

北京に戻って三日目、宋楠は指導者に対して引退の意向を示し、誠意をもって話し合った。「今は後継者がいるし、このような犠牲は中国の男子シングルにどんな良い前途ももたらさない。僕が出てきたあの時期は、中国男子シングルが一番低迷していた時期だ。成績面では大したブレイクスルーもなかったけど、でもあの時期にしてみれば、僕は世界の舞台で、中国男子はまだやれるということを再び証明できたと思う。そんな時があっただけでも満足している。」

宋楠の決定は両親とコーチの理解を得ることができた。彼がチームで過ごした時間は家にいた時間よりも長く、コーチとの親子のような感情を非常に大切にしていた。

「もしアスリートが成績を気にしないと言ったら嘘になるけど、でもこの問題をどう見るか。人の能力が、その人の成績がどのレベルにあるかを決める。この数年で僕の角ももう大分削れた。自分に対して申し訳が立てば、そして自分に良くしてくれた人や、コーチに申し訳が立てば、もう十分だ。実際、アスリートの成績は一部分でしかない。努力して、栄誉を手に入れられなかったとしても、無駄ということにはならないんだ。」

2.始めから終わりまで

宋楠の母親は医者であり、息子の病気を心配し、身体を鍛えさせようと思った。ある時、患者の健康診断をしていた際、偶然スケートの話題になった。この人がのちに宋楠に手ほどきをしてくれた先生となった。

思い返せば、宋楠がスケートをしていて一番楽しかったのは、何も考えずにいた子供時代であった。氷上で鬼ごっこをして、手袋を丸めて氷上でサッカーをして、氷上でバドミントンをした。最もよくやっていたのは、二人で行う技術的動作の競争だ。刺激を求めて賭けをした。一時期の茫然とした時期――練習がつまらなく、集中できない――を経験し、全国大会で上位に入って初めて、宋楠は競争相手の存在に気づき、具体的な目標を持ち始めた。ステージが高くなるにつれ、自然とその双肩に責任を感じるようになった。

誰かがプレッシャーをかけているわけではないけど、でもこのチームにいて、国旗の入った服を着ているんだから、この責任と栄誉のために何かしなきゃいけないと思った。これはきっとナショナルチームに入った人ならみんな言わなくても感じ取っている雰囲気だと思う。特にあの時期は、シングルはまだ低迷期で、大きな旗を担がなきゃいけないと思った。ここまでやってきて僕も国を裏切ったり、誰かに背いたりはしなかった。それぞれの人の才能は同じではないし、立っている高さも同じではない。僕はチャンピオンにはなれなかったし、オリンピックにも参加できなかったけど、でも僕のこの段階で、僕は十分よくやったと、自分では思う。
――宋楠

2010年に世界ジュニアで準優勝した後にシニアに上がり、1シーズンの鍛錬を経て、2011-2012シーズンの前半に、ベストの能力と状態に辿り着いた。その年、宋楠はスケート靴を換え、道具に対してうまく適応していた。そして練習拠点を換え、新しい環境の新鮮さが、精神的にも彼を奮起させていた。練習状態が向上してからは、試合時のカリスマ性も昔の比ではなく、更にコーチの激励が加わることで、良い循環を形成していた。そのシーズン、宋楠は2枚のグランプリシリーズのメダルを手にし、ファイナルの第一補欠となった。

惜しいことに、シーズン後半のコロラドの四大陸選手権で、宋楠は試合前に高熱を出し、繰り返し点滴をしても状態は好転せず、身体が最も弱っている状態で高地で試合をすることになった。彼はうまく力をコントロールできず、試合前の練習で力を使いすぎてしまい、本番では精彩を欠き、更に体に大きな負担をかけてしまった。

2012年の中国杯では、宋楠とアメリカのアダム・リッポンが6分間練習中に衝突した。大きな衝撃を受けた影響で脳震盪を起こし、昏倒しながら退場し、棄権せざるを得なかった。当時の宋楠の調子は決して良くはなかった。一年前のすばらしい演技は大きな期待と、プレッシャーをもたらしていた。衝突事故後、外では流言飛語が流れ始め、宋楠は衝突を口実に怪我を装って棄権したなどという邪推をする者もいた。彼は「傷心」という言葉で当時の気持ちを形容している。

「その話を聞いて、確かに、それを言った人をものすごく探したくなった。その人は一人のアスリートを侮辱したんだ。アスリートは普段の訓練ではなく、本番で自分を証明する。ひとつひとつの試合に、僕は全力で臨み、真摯に向き合っている。外でこんな疑問を持たれれば、この集団(訳注:スケート界)の中にも多かれ少なかれそう思う人が出てくる。あのとき僕はすでに昏倒してしまっていて、意識が戻った時は朝4時近かったんだ。寝ころんだまま動けなくて、チームドクターは何だかパニックを起こしてるみたいだった。彼は僕が昏倒したまま『僕どんな感じ?コーチどこ?試合終わった?試合出られる?』という質問をずっと繰り返していたと言っていた。僕の潜在意識ではそんなことを訊いた覚えはなかったんだけど。意識が戻った後、僕は試合終わった?と訊いた。でもこれはすごく馬鹿げた質問だった。だって僕は時計を見ていたから。彼は終わったと言った。仕方ないから、またそこでひと眠りして、翌日にMRIを撮って問題があるかチェックした。脳震盪だという話だった。」

彼はあまり長い間休む勇気がなく、また徐々に訓練を始め、フランス大会に備えた。「アスリートは一旦休んでしまうと、運動機能が水みたいに、とてもとても早く流れて行ってしまう。練習は水を一滴ずつ集めるようなもので、比率が全然違うんだ。」一方では怪我により訓練が疎かになり、もう一方ではどうしても自分を証明したいと思っていたため、身体と心がひどくちぐはぐになっていた。宋楠にとって、より適応しがたいのは心理的な動揺だった。この時期、師であり友でもあるコーチと彼は多く交流した。「(コーチは)自分を証明したいなら、自分の行動で試合をしろ、と。」言うは易し行うは難しで、シーズン全体を通して、宋楠はこの穴から抜け出すことができなかった。一旦滑り始めると、これらの混乱がまた頭に戻ってくるのだ。

時が移り変わり数年後、一部の人が昔のことを掘り返し、当時の棄権のことを指摘しても、宋楠は既に大分落ち着いていた。「別に何かを説明する必要もない。時には説明というのは『自分は悪くない』と言いたいだけになってしまうから。今思うのは、人が何か言いたければ言えばいいということ。」宋楠はすでに自分の怪我とプレッシャーを受け止めることに慣れていた。彼はあまり自分の感情を表に出さず、彼の周囲ではコーチだけが彼のことをよく分かっていた。「アスリートは怪我をしたことを周りに知らせないこともある。外の人が『怪我したって聞いたけど?』と言えば、『もう治ったよ』と言う。実際は治っているか?治っていないんだ。」

2014-15シーズンは宋楠にとって最も波乱の多い一年だった。シーズン最後の国別対抗戦が終わった後、宋楠は感極まって氷にキスをし、その一幕は多くのスケートファンに強い印象を残した。「あの時は実際引退したいと思った。でも長いこともがいてきて、名残惜しい、まだ引退したくないと思った。まだ国内大会もあるし、参加しないのはもったいなすぎる。僕にとっては、スポーツができる期間は一日ずつ減っていくんだから、時間を無駄にはできない、ひとつひとつの試合の機会を掴みたいと思った。」

もし古傷が再発していなければ、宋楠は滑り続ける予定だった。フィギュアスケートとの付き合いは20年を越え、後になればなるほど手放しがたくなる。短いアスリート人生の中で、彼は金メダルを逃したことを悔いたこともあった。今、彼はもう悔しいとは思わないが、未だにリンクに対しては未練が残っている。

3.一滴から大海へ

インタビューを受けた2月末、宋楠は既に半引退状態であったが、未だに一日に二度リンクで滑っていた。しかし訓練というよりは活動(訳注:遊びまではいかないが、ジムで体を動かすようなイメージ?)のようだった。リンクを出ると、彼は家にこもり、怪我のケアをする以外は、映画を観たり音楽を聴いたりしていた。

このような気軽さは、以前は想像できないことだった。宋楠は試合のことを気にしているときは、部屋で一人でいるときも、どう練習するか、どう試合に向き合うか、どう完成度を高めるか考えていた。試合前、彼は当時の訓練状態を考慮し、最も悪い結果を想定し、またベストな結果を想像した。この最低と最高の間が、彼の心が耐えられる範囲だった。

このようにして、心の中にプライベートな空間が減ってしまった。始めは宋楠もフォーラムを見たりしていたが、佟健、張昊などの兄貴分のアドバイスで、徐々に見なくなった。「前は成績も悪くなかったから。他の人がどう自分を褒めてるか見たかったんだけど、けなしている人もいる。きっとアドバイスは得られないし、でも自分は不愉快になる。こういうマイナスの影響が大きくなれば、自分で受け止めきれなくなる。」

今日まで続けることができたのは、フィギュアスケートに対する純粋な愛のためだ。宋楠は、彼がフィギュアスケートを愛してきた小さなことたちが――たとえ怪我をした当時どれほど辛かったとしても――普通の人にはない経験であり、思い返せば宝物であるという。

宋楠のプログラムのうち七割は自分で選んだものであり、思い出してみると愛着に満ちている。ジュニア時代は自分で音楽の編集もしていた。シニアに上がると、外国のチームで振り付けをして、大きな収穫を得た。「何人かの振付師は皆それぞれの特色があった。ジェフは自分のスタイルを持っていて、一目で分かる。ローリー、デヴィッドも芸術に対する独特の見解がある。こういうステージで勉強と交流ができたのはとても貴重なことだ。」交流の過程で、宋楠も自分の見解を提示するようになり、例えば「ミッション」のプログラムには、自分の考えが少なからず落とし込まれている。

もちろん、彼が最も好きなのは、試合での激しい競争の雰囲気だ。優秀な新人に対して、彼は一貫してポジティブな態度をとっていた。「競技だから、良くやったほうが勝つ。今の金博洋、閻涵はそれぞれ長所があって、彼らのデビューのしかたも違う。大きな環境から見れば、中国チームに二人のよりハイレベルな選手が出てきたことはとても嬉しい。チームにとってより栄誉なことだ。」

ナショナルチームのチームメイトはしばしば会うが、それぞれがそれぞれのスタイルで生活しているため、交流は決して多くなく、本当の集団生活は年越しだけである。チーム内「春晩(訳注:年末の歌番組。派手な紅白)」で、宋楠はイーソン・チャンの「娯楽天空」を歌った。彼によれば、何度も辞退したが断れなかったという。しかし映像を見ると、彼は十分場を盛り上げているようだった。「多分僕は歌うのに慣れたのかも。良くても悪くてもやらなきゃいけない。試合みたいに」

チーム内の「小さい頃から競い合いながら育ってきた」チームメイトたちは全て引退し、今は自分がさよならを言うときが来た。しかし20年の打ち込みは、すでに宋楠の人生とスケートを不可分にしている。未来について、彼はまだはっきりと計画はしていないが、彼はコーチになりたい、それが自分の個性により合うだろうと考えている。

4.宋楠の別れの時

(ナンソンの動画コメント全文です。ぜひ動画をご覧ください

こんにちは、宋楠です。
今日こういう時間をとって、自分のアスリート人生についてお話しできたことをとても嬉しく思います。
人はみんなこういう日がくるでしょう。ひとつのステージからゆっくりフェードアウトする。
でも、僕は後悔したことはありません。
まず、皆さんの僕に対する長年のサポートと応援に感謝します。
ずっと僕に付き添ってくれてありがとう。
僕が人生のピークに居ようが、谷に居ようが、ずっと皆さんの心からの祝福がありました。
本当は僕もとても名残惜しいです。
でも、皆さんが僕たちのことを理解してくれたらいいと思います。
確かに僕たちは氷上では輝ける人物でしょうが、自分の中で名残惜しいところも、どうしようもないところもあります。
皆さんが理解し、サポートしてくれることを願います。
皆さんが僕の今後の人生と、身体もより良くなるよう、祝福してくれたらいいと思います。
こんなところですね。どうぞ皆さん健康に過ごしてください。ありがとう。

(終)

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普段、noteではチョコレートにまつわる呪詛などを吐いています。

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