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旅のスケッチ 終わりたくない旅

どういう経緯でお遍路に行こうということになったのかもう思い出せない。それくらい前に、高校時代からの友人とふたりで自転車遍路をした。

特に悩み事があったということではなかった気がするけれども、それなりに将来への漠然とした不安のようなものはあったのかもしれない。お互い、美大を出た後も好きな創作の道を模索して数年を過ごしたのち、自分のやってきたことを生かせると感じた会社に就職していた。

旅の行き先にお遍路を選んだのは、決められたポイントめぐれば四国をぐるっと回ることができて、のどかな景色がありそうで、かつ、私も彼女も仏像や寺を見るのが好きだったというような理由だっただろうか。容易に旅が終わらせられないほど長い距離が用意されている、というところもよかった。はじめから一度に全てを回るつもりはなく、何度かに分けて回れるといいな、という程度の軽い気持ちで。

金泉寺
第三番札所 金泉寺

自転車歴は私の方があったので、その友人に自転車旅の魅力を説いて輪行できる自転車を購入してもらって、ふたりで休みの日取りをあわせて四国へと旅だった。確かまだできて間もない夜行列車、サンライズ瀬戸に乗って。

もちろん、お遍路は歩いて回るのが基本なので、自転車で回るというのはかなりずうずうしい回り方だけれども、車やバスで回る人に比べれば、昔ながらの古道を歩ける場面も多く、アップダウンを感じながら、風や緑の気配を感じながら巡ることができるので、とても気持ちが良かった。

熊谷寺より天守堂
第八番札所 熊谷寺

お遍路には長い歴史があるので、昔から遍路を歩く人々が通ってきた遍路道へんろみちというものがある。その多くの部分は現代の道が上塗りされて普通の道の顔をしているのだけれど、中には山道であったり、舗装路の裏側をぬうように走る畦道やけもの道のような裏道が残されているところもあって、裏路地好きな私にはたまらなく魅力的だ。もちろん、自転車で山道のようなところは通れないので、残された古道のような遍路道の全てを通れたわけではないのだけれど、「へんろみち保存協会」が出版していた地図帳を参考に、行けそうなところでは歩きへんろみちを通ったりしながら旅を続けた。

思い出が書き込まれたへんろみち保存協会の地図帳


焼山寺より生まれる雲
第十二番札所 焼山寺 途中で雨がパラついてきた

お遍路が文化として根付いている四国では、多くの人がお遍路さんに優しく「お接待」をしてもてなしてくれる。これは、自分の分までおまいりをお願いしますと言う功徳になるということからきている、信仰のひとつの形ではあるらしいのだけれど、ただの旅人に食べ物や飲み物を振る舞ってくれたり、笑顔で頑張ってと励ましてくれたり、軒先にベンチをおいて休憩できるようにしてくれてあったりと、いろいろなかたちでおもてなしを受けることになって、とても驚いた。

四国に住んでいればお遍路さんにはきっと毎日のように会うであろうに、そんなに毎回お接待していたら、嫌になってしまわないのだろうかと不思議だった。暑さでバテそうになっていたときには、峠の梅林近くに住んでいたおばあさんが自家製梅干しを分けてくれただけでなく、持っていくといいよ、とビニール袋に入れて渡してくれたり、タクシーの運転手のおじさんが土佐の日本一おいしい柑橘類、文旦をふるまってくれたり。雨が降って冷えた日に、庭に招き入れておいしい水で淹れたあたたかいお茶とおまんじゅうを出してくれたおじいさんとおばあさんもいた。あたたかな四国の人々の気持ちが、どれほど私たちを励まして、一歩先へ進む力をくれたかわからない。

太龍寺
第二十一番札所 太龍寺

札所を回っていると、何回もお遍路をされている方にでくわす。もちろん、信仰がおおもとにあるとしても、このお接待のあたたかさに触れたいがために、何度も回ってしまうのではないかとも思ってしまう。言ってみれば、お遍路さんは空海と同行二人の修行の旅であるといいながら、多く市井の人々に支えられた地元の方とのコミュニケーションの旅なのではないか。

ある程度歳を重ねた今になって思うことは、あるいは自分や近しい人がかつて遍路をしたことがあってお遍路さんの気持ちがわかるような地元の方たちが、かつての自分や友人をお遍路さんに重ねて、お接待として手厚くもてなし、声援をおくってくれていたのではないだろうか。

金剛峯寺より室戸岬
第二十六番札所 金剛頂寺より室戸岬

ちなみに、4回以上八十八ヶ所巡りをした人を先達といい、お遍路の案内人のような役割をもつのだそう。お寺に行くと納める納め札を見るとその人が何回お遍路をめぐっているのかわかるのだけれど、100回以上回った人だけが使える錦札という派手な納め札を私も数回見たことがある。多分、全部歩いて回ったという訳ではないと思うけれど、それにしても八十八箇所を100回以上とは、すごい人もいるものだ。御朱印帳はハンコがたくさん押されすぎて、ページ一面が朱色に染まっていた。

こういう先達の方に道中で出会うと、やはり励ましてもらったり、アドバイスをいただいたり、時にはロープウェーを使って山の上のお寺へ行こうとしていると言うと、お叱りをいただいたりもしたけれど、それもきっとそういう人にしか見えない風景を見せてくれようとしての先輩からの親切心だったに違いない。

平家屋敷
帰り道に寄ったかずら橋近くの平家屋敷

旅の細々したことについては、もうかなり前のことなのですっかり忘れてしまっていたけれど、その時の記録を振り返ってみると、1回目は徳島の一番札所、霊山寺から高知の二十六番札所、金剛頂寺まで。8日間の日程で夏休みを使っていったらしい。どのくらい1日で走れるのかもわからないので、休みの期間にたどり着けたのがここまでだったということ。

神峰寺
第二十七番札所 神峯寺

2回目はその翌年の初夏、金剛頂寺の近くの道の駅からスタートして、愛媛県五十六番札所、泰山寺まで。帰りは自転車で通行できるしまなみ海道から本州へ。この旅の前に私が勤めていた会社は倒産してしまい、私は失業中だったので、13日間もかけている。友人はどうだったのだろう?思い出せないけれど、同じような身の上だったのかもしれない。

こんな山奥にまで、というところにも人の住んでいる集落がたくさんあって、代々の住民たちによってつくられた棚田や、道のたたずまいの美しさに心を打たれた。地域独特の鯉のぼりと幟旗のある風景は特に印象に残っている。

桂浜
五色の石を集めた桂浜
土佐
土佐の荒々しくもあたたかな海の色

3回目に行く間に、私は青年海外協力隊の隊員になっていた。2年の海外生活を終えて戻ってから、3回目のお遍路へ。この時には、直島に寄ってから再び五十六番札所、泰山寺へ。6日間で八十八番札所、大窪寺まで回って結願。翌日に再び一番札所へ戻りお礼参りを済ませた。

直島コンテンポラリーアートミュージアム
行きがけに寄った直島コンテンポラリーアートミュージアム

海外から戻ってみると、日本は隅々まで清潔で、時にはやりすぎなほど細々したところまで気配りが行き届いていると感じたけれど、特に寺院の掃き清められた美しさや、真っ直ぐに伸びる手入れの行き届いた竹林の清々しさ、空気までもが清浄なほどの山林の静謐さが特に心に沁みた。山自体が信仰の対象になっているところも多いけれど、どういう訳かやはり日本の湿度の高く、でもひんやりとした山奥には八百万の神がいるような気は確かにした。それは私が日本人だからなのか、理由はわからなかったけれど。

大窪寺
八十八番札所 大窪寺にて結願

この後、本来ならば空海が開いた高野山へ行ってお礼参りをするというのが一般的なお遍路の作法らしいのだけれど、和歌山にある高野山まで行くのは大変なので、次回の旅を高野山にしようね、ということにして、この時には旅を終えた。

でも、その後機会を持たないうちに私は結婚、子どもも生まれて、旅どころではない生活になってしまった。友人もほぼ同じ時期にやはり結婚して子どもが生まれた。結婚してすぐの頃には、いつか行こうね、なんて話してもいた高野山だけれど、最近ではもう、そんな話すら出ないようになってしまった。でも、諦めたというのとは少し違う。いつかは行きたい、けれどもまだ行きたくはないこの気持ちはなんだろう。

幸い、この友人とは今でも年に数回はお互いに行き来する仲が続いていて、子育てのこと、自分のことを話し合うよき友人を続けているのだけれど、だからこそ、なんだかこれで一緒に高野山に行ったら、人生という旅が終わってしまいそうな気がして、なかなか同行を誘えずにいるのだ。いつまでも行きたいと思い続けながら日々暮らしていく、それもまた旅かも、なんて思ったりしながら。

いつか、子どもたちが私たちの手を離れてお互い健康であれば、また一緒に高野山への旅をする時が来るのかもしれないけれど、その時までは私は私の場所で通り過ぎる人たちに自分なりのお接待をしながら旅の途中を楽しめたら、それが十分うれしく、幸せなことに違いない。

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