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ぼくが子どものころ、欲しかった親になる。

別に、という書き出しもおかしいのだけれど、

結婚していて、30歳になって、傍から見れば親になってもおかしくない状況にあると思う。

だからといって、自分が親になるかも、何らかの理由によりならない、なれないことも、もちろんある、と思う。

だから私がこの本を読みたかったのは、単純に、幡野さんのように物を考える人が欲しかった親について語ることに興味があったし、その考え方は私の考え方の指針を練る上でとても大切なものになるんじゃないかな、と思ったからだ。

でも、この本を読み終わったら、少なくとも私は子育てをしてみたいな、という気持ちになっていた。幡野さんの言葉は本来の意味で優しく、優くんへの温かい気持ちが私にまでじわじわ伝わってきたから。この言いようのない気持ちを愛情と呼ぶんだとおもうのだけどな。


はっきり物を言うことは、強さじゃなくて優しさだと思う。ローランドの言う、NOと言わない人間のイエスになんの価値もない、というのと親しいと私は思う。

親のした苦労を子どもがする必要はないし、しなくてもいい苦労というのがやっぱりこの世にあるというのは、本当にそうだと思う。私も社会に搾取された経験がある。そして、それは自分で考えることやおかしくないか?と思うことを放棄して、こういうものだから、頑張らなくちゃいけないんだ、好きなことをやってるんだ、というライフワークとライスワークを履き違えたかなり酷いパターンだったと思う。あれは、今の仕事に生きているけれど、二年半で辞めて良かった。でも正直に言えば、私は自身でその判断がつけられるほど賢くなかった。半ば、家族からもう見ていられない、と強制ストップが入って、あの世界を脱出した。

賢くあろうとせず文句や悪態をついているだけの状態は罪かもしれない。だけど、そうなってしまう精神状態もよくわかる。辞めてみると、私はすこぶる元気になったし、営業は二度としたくないけど、対象をよく理解した上で人に伝えることは好きだな、ということがはっきりして、企業広報をすることにした。

幡野さんの、ガンを公表した後の優しい虐待の話を読んで、私も自分が友人に酷いことをしてしまった、ともう何年も前のことを、今恥じた。友人のお父さんが急な事故で亡くなられたことを新聞で知り、居ても立っても居られなくなって、大丈夫かと電話してしまった。そんなこと、私に聞かれたってどうしようもないのに、私は私のためにその子に電話してしまった。励ましたかったし、大丈夫かどうか知りたかったけど、あの行動は間違っていたと思う。その子がどう感じたかはその子にしかわからないけれど、センシティブなことは一層、本当の相手のことを冷静に考えてから行動しなきゃいけない。


旦那さんとの些細な喧嘩も、紐解けば、当人にとっての幸せと、傍が判断した幸せの価値観が違うことが、ほぼほぼすべての原因なのではないか、と思う。良かれと思って、の押し付け合い。洗濯しておいてあげよう、が、明日着るつもりだった、とか、ソファで寝たら体を痛めるから起こして布団で寝かせよう、が、好きに寝させてほしかった、とか。つまらない例を挙げてしまうけど、本当は相手の為を思ってるつもりでも、本当に思ってたとしても、やっぱり押し付けてることに違いはないと思うのだ。

ミスチルの櫻井さんが、愛とは?という問いかけのあとに、想像力だと思う、と言ってand I love  youを歌った。

愛なんて概念に絶対の解答はないと思うけど、随分前のライブ構成をずっと忘れずにいるくらい、心に響いた。想像力を持って人に接するには、優しくあらなければならない。

優しい人、ってなんだろう。優しいってなんだろう。いい人ってなんだろう。賢いってなんだろう。私はどんな人なんだろう。外に対して優しくあることで搾取されるような気持ちが、私にはある。それは優しくない。いい人しぃ、だ。なんだろうこの、こうしなきゃっていういい人の枠は。気持ちよくあれば良いだけなのに。

こないだ人生会議について考えて、足元として人からの呪いにかからない、自分で呪いをかけない、ということを決めた。賢さは多分、自分で判断する力だ。この人が、このモノが、この経験が、自分にとってどんななのかを正しく見極める力。おかしな方向に向かっているときに、それとの関係を断てること。外圧に押されない、侵されない力。時間がかかってもいいから、考えることをやめないことで、それは磨かれるんじゃないだろうか。

優しいってなんだろう、で考え出すとまだ着地点が見えない。でも、私には、この人は優しい、と言える人が二人いることに気がついた。うーんでも、考えてくとまた疑問が湧く。本物の優しさについて、考えてみようと思う。またこの本は読み返したいと思います。