大江健三郎の訃報を聞いて電子書籍で『芽むしり仔撃ち』を購入する

仕事中に大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』が読みたくなった。大江健三郎の初期の長編で、少年たちの無謀さとエロへの願望がつまった小説だったと記憶している。「南」というあだ名の少年がいて、理由は「南に行きたい」といつも言ってるから。とにかく、僕は生命力というのが欲しくなって、それは動画をだらーと見たり、ウマ娘の育成に励んでも得られないものなのだ。そんなことを考えた仕事の帰り道に大江健三郎が死んだことを知った。こういう偶然には全力で乗っかるしかないと、つらつらと書いてみる。

大江健三郎といえば、左翼的な政治活動が紹介されることが多いけれど、僕にとっては「あんな顔しながらエロいことばかり考えて小説に落とし込もうとしてるヤツ」という印象だ。これは『性的人間』を読んだせいだろう。この小説では、電車内の組織的痴漢や乱交パーティーに励む者たちを描いているものだったはずだ。わざわざそんなものを小説に書くのかよ、と大学生時代の僕は読みながらあきれた。

大江健三郎の小説はタイトルがカッコいいものが多い。その一つが『見るまえに跳べ』。題名にひかれて買ってみたものの、その内容は米国兵に女をとられる内容だったと思う。「日本人はさ、デモとかストライキとかもっとやるべきなんだよ。米国には『見るまえに跳べ』ってことわざがあるけど、日本人は見るだけじゃねえか」というようなセリフがあった気がする。んなこと偉そうに語るとはまさに「戦勝国の奢り」である。こんなふうに理不尽に女とられるんだから、大江健三郎が左翼的政治活動に精を出すのも無理はない。なお、『見るまえに跳べ』という小説は若い頃の僕にはくだらない小説の典型例だったが、今ふり返すと、それはそれで貴重な物語であるかもしれない。

そういう感じで、大学時代に大江健三郎を読み始めたが『個人的体験』で止まってしまった。三島由紀夫が「ラストはクソ。ハッピーエンドにしろという権力者の圧力でもあったのかとしか思えないほどクソ」と言ったことで有名な小説である。その後の『万延元年のフットボール』とか『同時代ゲーム』とか、クッソ難しくて、批評家たちがすぐに投げ出したことで有名という評判ばかりが目について、手を伸ばすことはなかった。ということで、僕にとっての大江健三郎の代表作は『芽むしり仔撃ち』である。

が、今では批評家たちの文章を読まずともWikipediaであらすじを知ることができる便利な時代である。ということで『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』のWikipediaを見てみた。すっごい面白そうである。なんというか、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んだときの興奮を思い起こされた。特に、大江健三郎にとって『同時代ゲーム』は自信作なのに誰も読んでくれないので、何度も別の形で小説化しているらしい。そのモチーフは「女族長とトリックスター」とのこと。だったら、タイトルもそうしろよ。同時代ゲームじゃ誰も読まねえよ、と突っ込まざるをえない。

今の日本の物語は漫画が圧倒的に支配している。しかし、漫画は描くのに時間がかかるわけで、ほとんどが連載作品である。連載となると、編集者とかファンの声もまじるわけで、物語の完成度は高くなるわけだけど、まどろっこしいところがある。『進撃の巨人』は元から結末は決まってたみたいだけど、当時の構想と実際のラストは違ってたと思うし、僕としてはむしろ連載初期に抱いていた終着点が知りたいと感じたものだ。その点、小説は「書き下ろし長編」という文化がある。一発出しで物語が完結するのだ。実にいさぎよい。

世の中には「伏線が解消される見事さ」に感動する人が多いが、世界を動かすのは「構想の見事さ」ではないかと思う。伏線が解消された見事なエンドの前に、もう世界は動いちゃってるからである。なので、僕は竜頭蛇尾がわりと好きである。そう思いながら、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を聴いてみた。クラシックのことはよく知らないが、あの曲は竜頭蛇尾な感じがする。あのイントロは超カッコいい。ザ・フーの『ババ・オライリィ』のピアノもあれぐらい気合入ってると思ってる。

話を大江健三郎に戻そう。僕の読書体験のせいか、彼の作品には性のたくましさみたいな印象を受ける。今の社会人としての僕は、世の性犯罪をバカなヤツ、と思ってるのだけれど、そういう性犯罪が世界を動かしたのも事実なわけで、そういう産物が社会を構成している。僕がぱっと思い浮かぶのは、シーボルトの娘のこと。司馬遼太郎の『花神』は、戊辰戦争を指揮した大村益次郎が、シーボルトの娘を「運命の女」と思ってたのではないかという司馬遼太郎の構想から描かれたものだが、このシーボルトの娘は、とある医学者の内弟子で働いてたときに、師匠に妊娠させられたらしい。とんでもないことである。シーボルトの弟子たちにとっても愛娘に等しい存在だった彼女の妊娠を知って、そいつは学界から締め出されたらしい。当然の報いである。でも、そういうものが世界を動かしているわけである。「運命を動かす暴力装置」というべきであろうか。

今開催しているWBCで考えてみよう。日韓戦でショートの源田が負傷して、いまでも論争を起こしている。源田の代わりに本職のショートを呼ぶべきだという声である。ここで、巨人の坂本が例のLINEを暴露されてなければ、彼はWBCメンバーに加わっていたという世界線を連想する。栗山監督的に今回のWBCは源田がショートのレギュラーだったと思うが、メンバーに坂本は選ばれていたかもしれない。そうなると、源田の負傷はここまで大騒ぎにならなかったはずだ。坂本の性のたくましさはこうして世界に影響を与えているわけである。何が良い何が悪いという話ではない。これぞ運命である。

ということで、僕は社会に配慮しながら生きている結果、やる気をなくしているわけである。せめて、小説を読んで、性のたくましさを思い起こしたいと思い、今日、近所の書店に寄ってみたが、大江健三郎の本は一冊もなかった。そんなものである。しかし、こういうときこそ電子書籍。これから、『芽むしり仔撃ち』を電子書籍で読んでみよう。

つまり、この記事は、大江健三郎の訃報を聞いてから、電子書籍で購入してそれを読もうと決意するまでの意識の流れを描いた個人的感想である。こういうのは書いててストレス解消になっていい。時間を置いて見返すと、いろいろ思い出すこともあるしね。

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