誰がために鐘を鳴らすか

7〜8年前のこと、フリーター時代に、平日の誰も来ない展望台の売店で店番をしていて、あまりの暇さに頭がぼんやりとしてきたそのとき、ある小説のストーリーが思い浮かんだ。それを実際に書いてみると、自分の気持ちが溢れてきて、表現の巧拙はともかくとして、その訴えたい内容は、これから先の自分の書く文章の行く先を示す羅針盤のようなものだと気付いた。それから何回か手を入れた小説をnoteに投稿した。

私は、私の文章を読む人が淋しくならないように、と思っている。「何言ってんだか、わかんないよ」と思われてもいいけど、それによって「これがわからない私ってダメなのかな」と思われたくない。それは、「私」がそう思いたくないからだ。

「目が覚めたら別のひと」

「目が覚めたら別のひと」を読んでもらうとわかるように、私にとって、ある一部の他人の作品は、いつか私が別の人生で作ったものなのだ。そして、私の作品は、いつか別の人生を歩んでいる私のための作品。究極のジコチュー。そうでありたい。いつか死んで、輪廻転生かなんかで、いや、そんなのでなくても、私の一部が世界に溶けて、私でない誰かの一部になったとして、その人が淋しくて仕方ないとき、私が表現したものに触れて慰められたら、と思う。トーマス・マンや夏目漱石や、ミヒャエル・エンデを読んだとき、「これは私の物語だ」と思った。その謎の私にとっての回答が、「目が覚めたら別のひと」の中にある。

それが一般と比べて多いかどうかわからないが、私はひどく孤独な気持ちになることがある。世界にひとりぼっちにされたような、誰も 理解してくれないような。どんな気晴らしも届かないで、どんなに好きな人からも遠ざかってしまうときがある。

そういうときに、ぴったり当てはまる作品は、いつも違う。あるときは梶井基次郎で、あるときは中島敦で、あるときは、作者も知らない街の看板、素性の分からないインターネットの掲示板の誰かの一言というときもある。

私は文章を書くとき、読者は自分でない自分の姿しか見えない。ほかの全く得体の知れない誰かが私の文章を読んでいるという風に思えない。でも、その読者は、私ではない。だから一生懸命伝えなくてはわからないし、でも伝えようとしなくても、伝わったりわかったりする部分がある。いつも不思議なのだ。なんであなたは、私じゃないのに、私の言っている意味がわかるの?あなたは、実は私なんじゃないの?

だから、「私とは違う私」のことを否定したくない。拒否したくない。「これは私のための文章だ」と私(ではない私)が思ってくれる一言を追いかける。追いつかなくても、追いかける。それがいつかどこかで、巡り巡って「あなた」のための文章になれたら、こんな嬉しいことはない、と思う。もしくは、あなたが私だったのなら。

いつも、読んでいただき、ありがとうございます。気分にムラがありますが、noteという場所があることは、私にとって救いです。インターネットでこんな風に自分の書きたいことを書けるような時代、場所に生まれたことは、本当にラッキーなことです。同人誌とかではなく、個人でひっそりと書いてひっそりと公開する、なんてことができなかったら、私の書いた文章は本当にごく一部の私の友人しか読まなかったでしょう。それでもいいや、と思っていましたが、noteで出会えた人たちと交流して読んでもらえることがこんなに嬉しいこととは。その喜びを知ることができて嬉しいです。読んでもらえること、コメントをもらえること、全部力になっています。それに応えてもう少し作品を発表できるといいのですが。。今年の目標はがんばらない、なので、がんばらないように、ぼちぼちやりたいように自由にやろうと思います。これからもよろしくお願いします。

#エッセイ

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