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マスク、mask、仮面と和訳できます

しばらく、iPhoneの調子が悪くて、noteをお休みしていましたが、みなさんに、「大丈夫?待ってるよ!」の意味(だと勝手に思っている)のスキをもらったり、花さんやSさん、翠さんにコメントいただき、本当にありがたく、、みなさん、ありがとうございました。

一方で、非常に申し訳ないのですが、iPhoneの不調という言い訳でお休みができたことにホッとしてもおりました。理由は、普段の仕事が完全に私のキャパシティをオーバーしだしたためです。iPhoneとともに、私ももう外部に接続して画像とか動画読み込むとか無理です、という感じでした。

iPhoneはソフトウェアのバージョンアップをしたら、なんとか調子を取り戻しましたけど、つまり、私もバージョンアップが必要ってことですかね。

8月中にやらなければいけないことが、たくさんあり、私の要領が悪いので人にうまく振ることもできず、もっとコミュニケーションに時間を割かなければいけない人がいるのに、他の打ち合わせに時間をとられてしまう。

金曜の夜は上司に泣きながら電話をしてしまいました。だって先に帰っちゃうんだもん。

精神的にギリギリだったので、日中も顔がこわばってしまってイライラのオーラが大放出していることが自分でもわかったので、マスクをしました。

マスクをすると、ほんの少しですが、自分と世界の間に距離ができて、冷静になれる気がしました。つらいよーとか、無理だよーという気持ちを、マスクはさらっと覆いかぶせてしまって、無機質な、感情のない個体にしてしまう。

冬になると、飲食店や小売店でマスクをして接客をする方たちが増えますが、私はあんまり好きではありません。風邪をひいているのなら休ませてあげなよ、と思うし、予防のためだと、なんだか接客するロボットに対応されているような気がします。人間的なコミュニケーションの遮断をされたように思ってしまう。

でも、先週の私、生(ナマ)の私は、トゲトゲしていて、コントロールできないドロッとした粘着質な何かが出ていて、、それは家族ならいざ知らず、いや家族でも、そのまま見せてこれが私です、と押しつけるわけにはいかなかったのです。

そういうことを愛だと言う人もいるけど、私はわがままのように思ってしまうから。

ぐちゃぐちゃで濁っていて、異臭を放って気持ち悪い粘菌のような気持ちは、ナマのまま押し付けるんじゃなくて、せめてプレパラートに採取して、顕微鏡で見やすいようにしようよ、と思うわけです。

そこで虚飾や偽りを、無意識的にも混ぜてしまうことで、余計に関係をこじらせることもあるので、そこには危険もあるけれど、一方で、愛してる人に、これがありのままだから、はい、どうぞって差し出すのも、違うと思ってしまうのです。

そんなわけで、マスクをしたら、少し、気持ちが楽になりました。嘘をついているのではないけれど、世界と距離を置いて、少し無機質になって。アンディウォーホルが、僕は機械になりたい、といったような感じ。それは、彼の冷たさでなく、優しさのように思うのです。人間的なままナイフをかざすのなら、ロボットの冷たい優しさで抱きしめる必要があるときもあるのです。

何も考えないで、無垢の名のもと、無加工の感情を放出させる生き方。それは強さでもあるので、憧れる気持ちもあるけど、きっと私には無理なのだろうなぁ。そっちのほうが、きっと辛くなってしまうのだろうと思います。

ただ、それでも、できるなら小出しにでも、私の心の粘菌をプレパラートに置いて、顕微鏡も置いておいて、たくさん博物館に展示して、できれば多くの人に見てもらって、一部のわかってくれる人に、ああ、本当はこんなにぐちゃぐちゃだったんだね、気持ち悪くなんかないよ、よしよしって、されたいですけどね。そのときに、へんに加工してしまいたくない。

距離感。難しい。

さて、明日はマスクしなくても仕事できるかな。

私の心の粘菌博物館は、365日、noteで展示公開しております。なんと無料!


#エッセイ #マスク #優しさ #冷たさ #仕事 #コミュニケーション #粘菌博物館

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