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皿が割れた時のこころのうち

皿が割れた音を耳にすると、心がざわざわする。単純にガシャンッという強い音にびっくりするのと、何かが壊れたことに対するえも言われぬ不吉な気持ちと、同時に「割れたのはどの皿だろう?私の皿?」という利己的な気持ちが混在する。割れた皿を確認して、「ああ、これならまだよかった」と安堵したり、「これかああ」とショックを受けたりする。同時に、頭の中で瞬時に、「その皿ならあそこに行けばまたあのくらいの値段で手に入る」など可逆的であることが判断できると少し気持ちが落ち着く。

人と一緒に住み始めたことで、自分の器を違う目線で使ってもらえる歓びを味わえるとともに、器が割れてしまうこともやはりある。過去3回、それぞれ違う友人が私の皿を割ってしまう場面に遭遇したが、その時の自分が一体どんな顔をいていたか、あまり思い出したくない。作り笑顔で、「仕方ないね」とか言いながら気にしていない風に大人な対応を取りながら、内心はめちゃくちゃざわざわしていて、頭の中では、超高速で上記の算段がくるくるまわっている。さっと片付けを手伝い、危ない割れ物を処理して、ニコだなんてしながら、心の中では「ごめん」の一言を死ぬほど欲している。それが聞ければ気持ちも落ち着くが、欲しい「ごめん」が聞けない場合、作り笑顔がどうも維持できなくなる。

先日、同居人とまさにそんな場面になった。私の皿ではなく家にもともとあった皿だと思っていたらしい同居人の口から、「ごめん」は出てこなかった。昼食を作ってもらっていたのでありがとうの気持ちは込めつつ、私は例のニコを顔に張りつけながら、原因究明と再発防止に努めた。「手が滑ったの?」「熱いまま持ったのかな?」などと遠回しに状況を聞いているうち、「皿が勝手に割れた」という同居人の言葉に我慢できなくなって「私のお皿なんだから、ひとことくらいごめんとかあってもよくない?」と本心が飛び出てしまった。

結局、彼は私の皿でないと思っていたことがわかり、私も頭では仕方ないとわかっていたし大人気ない自分を省みて、気持ちは少し落ち着いた。

ちなみに、上記の3症例のうち、別の友人も同じ場面で「皿が勝手に割れた」という表現をした。そんなことあるかい!と全く同じ気持ちになったのを覚えている。意図しない場面に遭遇した時に陥る人間の心理なのだろうか。興味深い。

この話で注目すべき点は、「自分の皿でなければいいのか問題」と「形ある物は壊れて当然。日常使いの雑器なのだから本望でしょう問題」だ。今手塚治虫のブッダを読んでいて、この命には価値があってこの命にはないなんてことはない、皆同じ命なのだ、と厳かな気持ちになる。確かに自分の皿かどうかは気になるが、「皿が割れる」こと自体にも、私はとても悲しい気持ちになるのだと思った。

二点目は、本当にその通りで、そんなに大事ならば使わずにしまっておけば壊れないが、そういうリスクさえも共有して日常の中で大事に使うことに意味があるのだと思う。雑器の天命を全うしたあの皿は讃えてあげよう。

ここまで考えて、私は別に「ごめん」が欲しかったのではないことに気づいた。割れてしまった悲しい気持ちを、共有したかったのかもしれない。私は人よりも器への思い入れが強いようで、そこへ「皿が勝手に割れた」という無責任に聞こえることばに過敏に反応して、感情がコントロールできなくなってしまったようだ。

ただ、人の発することばというものは、私が思っているほど意味を持たない場合もある。せっかく作って出来上がった昼ご飯が、皿と共にオジャンになってしまった同居人の悔しさややるせなさも、その投げやりにも聞こえることばには表れていたように思う。

私もこれからは別にニコを張り付けなくてもいいから、悲しい気持ちをちゃんと味わってあげようと思う。