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鵜呑みガールのその後

私は、ゆらぐ。

誰かから向けられたかすかな、でも刺すような一言に。誰かの小さな敵意に。

前は、このゆらぐ自分が嫌だった。ズドンと巨神兵のようにどっしりと、何がきても「きかんぞ」と言いたいとずっと思っていた。でも今は、おきあがりこぼしのように、ゆらいでも中心に戻ってくればいいと思っている。

ぐわんぐわんするということは、相手の言うことも一度適度に受けるということだ。取るに足らない相手であれば無視すればいいが、そういう相手ばかりでもない。全力で受けるとダメージが大きすぎるが、私にはそれを共有する人がいる。

こういうことを言われた。ことばだけ捉えると、ショックだ。でもそれを人と共有することで、自分が思う以外の受け取り方もあることを知る。相手がそのことばを口にした背景(平田オリザさんの言う“コンテクスト”参考:『わかりあえないことから』)にも想いを馳せる。

こうして、少しずつその出来事を自分なりに解釈して、自分の軸と照らし合わせて、うんやっぱり自分の思う方向に進もう、と改めて思えばいい。なんなら、相手の意見のいいところだけいただいて、若干軌道修正するしなやかささえ持ちたい。

どこで満足するかは、人それぞれだ。

私は10年頃前に、沖縄の離島で短い期間だがサトウキビ刈りのアルバイトをしたことがある。その時に一緒の援農隊だった仙人みたいな20代後半だった男の人と私は仲良くなった。彼はいろいろな経験をしていて、昔はどこぞのテレビ局で働いていて、その後どこそこで林業を学んで、今はこのキビ刈りをしながら民宿の立ち上げを手伝っている。ゆくゆくは熊野で民宿を作るため、自分に必要な技術を習得しているところだと教えてくれた。私はスゴイなあと目を丸くしながらワクワク聞いていた。

その話を同じ援農隊のもう一人の女性に話したら、ものすごく嫌悪感に満ちた顔で、「あの人、全部中途半端だから」と吐き捨てるように言ったのだ。彼女は彼が嫌いらしい。衝撃だった。その時は何が真実かよくわからず混乱しながら、どうやら物事には二面性があるようだと思った気がする。

思い返すと、彼の言うことは確かにあやしい部分もあって、嘘八百だったかもしれない。ペテン師のようなちょび髭もはやしていた。確かに、思い返せば思い返すほど胡散臭い男だ。でも今なら私は、「いいぞ、やれやれ!」とその仙人に全力で肩入れしたい。人からどう見られようが、自分が信念を持って何かをすればいいのだ。中途半端かどうかは自分の軸を価値基準にすればいい。

そういえば、その仙人から私は「鵜呑みガール」と名付けられた。人の言うことを鵜呑みにして、すぐ信じていた無垢な私。自分の軸を持たずぐらぐらしていた鵜呑みガールは、10年の時を経て、ようやく時間をかけてでも真ん中にうんこらしょと戻ってくることができるようになった。あの仙人は今頃どうしているのだろう。きっとどこかで悪口言われながらしぶとく生きているだろう彼を想像して、口元が緩んだ。

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