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株湯のススメ

「足は、組むんじゃなくてねえ」

温泉の湯船に入っていたら、隣のおばちゃんからふいに声をかけられてびくっとする。

鳥取県、三朝温泉の株湯。840年もの歴史を持つ由緒正しきこの共同浴場にはいくつものしきたりがあり、慣れない頃は来る度にいつも何か怒られた。

湯船が床と同じ高さにあるので、髪を洗ってバシャーンと派手にやると、湯船に泡が入るから前かがみにそっとお湯を流すこと。お風呂から出たら、去る前に脱衣所の床をきちんとモップで掃除すること。知らないで過ごしていると、誰かに何かしら毎回一つは指摘され、最初の頃はビクビクしていた。

しかし、昨年の冬はわけあって風呂なし生活で日常的に温泉通いをしていたため、すっかり玄人の仲間入りをしたつもりだった。なんなら新入りさんに、こうしないと怒られますよ、と教えてあげたりなぞしていた。

それなのに。あらまた何か私やらかしたかしら、と思いながら、緊張しながら次の言葉を待つ。

「こうして開くと水圧が足の両側からかかって、血行がよくなるのよ。なんなら、開いて閉じて、開いて閉じて。こうすると、さらに効果的よ。長い時間浸かっていなくても、あっという間に身体が温まるんだから。」

めちゃくちゃ具体的な血行促進のアドバイスだった。さらに、こう続く。

「でも、別にやらなくてもいいのよ。言われたからってやるかやらないかは、あなたが決めること。だって、自分の人生だもの。人から言われたからやる、ばかりじゃおもしろくないでしょう。」

まさかの人生論に発展。拍子抜けして、顔がにやけるのをこらえながら、言われた通りにやってみると、確かに気持ちが良い。ただでさえ熱いお湯。いつもは身を固めて、足を組んだ姿勢をキープしていた。でも、おばちゃんに言われるがままに二人して開いて閉じて開いて閉じてしていたら、身体がポカポカしてきた。

おばちゃん曰く、混んでいるところでやったら迷惑だから、敢えていつも空いている時間帯を狙って来ているそうだ。平日の午前中で、おばちゃんとふたり貸し切りのお風呂。開いて閉じて、には絶好のタイミングだった。私は西部の方に引っ越してから家が遠くなったので、株湯に来るのはご無沙汰だったが、夜勤明けで足を伸ばしてよかった。

私は人から言われたことを、つい鵜呑みにしてしまう傾向がある。言われる人にもよるけれど、自分の考えがあっても、そう言われればそうかな、とぐっと押し殺してしまうことがある。人が言うことに乗っかって見える世界もあるけれど、それを選択肢のひとつとして引き出しにしまって、選ぶのは自分自身という意識をもっと持たないといけないなあ。

温泉に入るとき、私は眼鏡を外していることが多い。だから、おばちゃんの顔もシルエットくらいしかわからない。声色と、シルエットと、なんとなくの動きだけで取るコミュニケーション。声だって、風呂の湯気にゆらゆらして曖昧だ。相手の顔色を伺ったり、一挙手一投足に意識を払わない、適当な関係の中でのゆるやかなキャッチボールが、私は好きだ。共同浴場の醍醐味はこういう部分だったなあと半分のぼせた頭で考えていた。

「だって、自分の人生だもの。」

まじで決め台詞だわ。また夜勤明けに開いて閉じて、しに行こうっと。