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強迫観念よサヨウナラ

時間があることは自由でワクワクするはずなのに、罪悪感を覚えるのはなぜだろう。

そこまで責任がなく、定時ですっきり帰れることは喜ばしいはずなのに、なにに対するうしろめたさなのだろうか。

大変な仕事、やりがいのある仕事、それをしていると周りが「すごいね」って言ってくれる仕事。そういうものをしていると、私は大丈夫だという安心感がある。少なくとも、このレールに乗っていれば大丈夫。そういう保険がかかっているように思う。

その甘い汁が手放せなくて、学生時代は大変だといわれる部活に敢えて所属していたように思う。私は、その部活動が好きだったのではなくて、「頑張っている自分」が好きだった。いや、頑張っていて、ようやく人と肩を並べられると思っていた。立ち泳ぎをしていないと沈んでしまうと思って必死で足を動かしていた。まさか、手足を動かさず伸ばしていたら人の身体はぷかりと浮くだなんて、知らなかった。

この1週間、私の中にずっとあった感情は、焦りだった。

私がこんなに気楽な日々を過ごしている間に、みんなは有意義に時間を使って、どんどん置いてきぼりになってしまうのではないか。どうしよう。そればかり考えていた。

自由というものが、こんなに心もとないのだということを、初めて知った。

この道を行けば必ずここまで到達できるというお手本はないので、自分がよしと思う道を開拓している状態で、方向性は間違ってはいないと思う。でも、確信はないし保障もない。そのことに対する、不安が溢れてきて、いてもたってもいられなくなる。

気楽な仕事をこなして、それなりにお金ももらえてラッキーと思えたら楽だろうに。衣食住が確保され、誰からも攻撃を受けない状況にあるだけで、ひとまずこんな幸せはないだろうに。

大学時代、部活に入らないで過ごす人って一体どんな風にこんなに長い夏休みを過ごすのだろうと不思議で仕方なかったが、こういうことかと思った。自分の責任で、自分の時間を使うこと。誰も守ってくれない世界で、自分を信じて生きていくというのは、とてもとても頼りなくて、同時にとてつもなく自由だ。

心に毛を生やして、開き直って、せっかく手に入れた自由を謳歌しよう。このなぞの強迫観念こそがおそらく自分を形成してきた本質的部分であり、今までずっと手放せなかったもの。ここを越えたら、何が見えるか。