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フィジカルアセスメント

さっきまでスーパー眠たかったのに、お風呂に入ったらなんだか目が冴えてしまった。

からだは疲れている自覚はあって、おそらく大人しく寝た方がいいんでしょうけど、アドレナリンが出ているのならば仕方ない。日記でも書くことにしよう。

この二、三日、ずっと考えていること。責任逃れと請け負うことについて。

今まで、調子が悪ければとりあえず病院へ、という認識を持っていた。親がそういう考え方だったので、悪化するよりは早めに予防線を張っておきたい。薬をもらって飲んでいれば安心だし、専門家からたいしたことないと言われれば安心だ。でも、せっかく病院へ行っても、全く安心できないような邪険な扱いを受けて凹むことも正直よくある。お金と時間を割いて凹むってなんなのだろう。でも、病院に行ける時に行っておかずに仕事に差し障ると嫌だなと思い、やはり病院へは早めに行くことが多い。

この度、飼っている猫ちゃんが弱っているかも…とのことで、病院へ行くかどうするか、という話に同居人たちとなった。私の性格上、一度行っておいた方が安心なのかなと思ったのだが、皆で相談し、いったん様子を見ようとなった。そして、病院に行かないかわりに、同居人たちがものすごく猫ちゃんたちをよく観察して、関わっていることに驚く。餌を食べている様子を見てよしよし、だけでなく、数匹いる中で、どの子がどれだけ食べたかはお腹の膨らみ具合を触ればわかる、とか(これこそフィジカルアセスメント!)、この仕草は今までなかったから、これが出て来たことは回復の証だ、とか。とにかく、よく見て関わらないと気付かないあれこれと、体重の増加という目に見えるデータを駆使し、自分達で細かくケアしているのだ。

そんな様子を見ていたら、病院へ行った方が良いと思った私は、責任転嫁をしたかっただけなのではないかとふと思った。ここまでこの猫達に関わることもせずに、誰かの太鼓判を押してもらい、それを鵜呑みにして「安心」を得たかった。思えば、自分の身体についてもそうかもしれない。病院で薬をもらえば、とりあえず「安心」。時間と労力をかけて自分の健康を自分で請け負うことを放棄し、誰かから与えられる「安心」にすがっていた。

餅は餅屋で、専門家に話を通すことが必要な場面も必ずあるので、そこの線引きはきちんとしたい。でも、人から安易に「安心」を享受してハイ終わりではなく、自分で責任を持って請け負うという姿勢に、驚きとともに感動すらした。人と住むって、こういう小さな常識や感覚の違いの擦り合わせがあるからおもしろい。便乗して、猫に関わりつつある日々である。とりあえず、今月の短歌は猫ネタばかり。私なりに、猫ちゃんとの距離感を少しずつ狭めていっている。