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春ピリカグランプリ、個人賞発表!


111作品のエントリーをいただきましたショートショートの祭典、春ピリカグランプリ。いよいよ個人賞の発表となりました。

※すまスパ賞については、さわきゆりさんの記事をご覧ください。すまスパ受賞者のみなさま、おめでとうございます!

みなさんの想いがたっぷりつまった作品たちのなかで、私たち審査員9名の「いちばん」を選びました。

さあ、個人賞9作品を早速、発表したいと思います!

👑geek賞

武川蔓緒さん/夜の指

   武川さんの文章に触れたとき、何が書かれているのだろう、という好奇心に似た気持ちを抱いた。それはたとえば、繁華街の表通りから一本入った路地で感じる妖しい雰囲気のような。時間の歩みを止めた不思議な一角を見つけたような。本屋さんの普段行かない棚で見つけた、どこか気になる怪しい背表紙のような。
 今回の作品は、妻と愛人というふたりの女性を個性ある文体で描いたものがたり。


 舞台は昭和動乱期にあった海千山千の者どもの集まる盛り場を想像させる。そこに艶かしい女性の歌い手がいるのであれば、進駐軍のラジオから"輸入"されたジャズがあるのだろう。その一方には黒田節がある。銭や性や腕力といった欲望が人目憚らず噴きだす世界。それは杜若の印象からはもっとも遠い世界。たとえるなら阿佐田哲也の麻雀放浪記に登場する「オックスクラブ」のようなところか。

 作品のなかで妻は、夫の骨を愛人に見せる。夫の指の骨を砕いて身につけているのだ。これだけでも驚きだが、それを見せられた愛人は予想外の行動に出る。なんとそれを珈琲に混ぜて呑みほしてしまった。

「……有難く戴くわ。奥様も珈琲で呑んだら如何? 軀じゅう触ってくれるわよ」

 裸より淫靡なドレスを着た女が、愛人の骨を飲んでしまうという衝撃。

 かつて澁澤龍彦はバタイユを引いて「禁を犯すというところにエロティシズムの最高の妙諦がある」と記した。そう考えるとこの場面を最後に配しても相当な印象を残したはずである。しかしものがたりはここで終わらず、書き手は対照的なふたりの女性をさらに描いた。

 描写された愛人の姿は鬼気迫るものがあり、カラヴァッジオが描いたメデューサを思い起こさせる。一方は机に凭れる妻の郁。郁は自分の指に流れる血に気づく。指輪を染めた血は獲物に絡みつく蛇を思わせる。その指輪にはまだ半分、夫の指の骨が入っている。全ては渡さない。夫と居続けようとしている自分。夫を自分の許から逃さない自分。
 血に染まった自らの指を見つめる郁のまなざしは、愛人に対比されたそれであろう。

その生粋の黒翡翠こそ人外であるか



 指輪、指の骨、そして妻の指を通して描かれた世界には他の作品にはない生々しさと艶があり、読み手の五感を刺激する。そして杜若はグランプリ開催の季節に咲き始める花でもある。

👑兄弟航路賞

葵さん/太陽のへその緒

 小説の基本がおさえられており、たいへん読み応えのある作品でした。晩柑を媒体として、樹と咲の美しい人間模様がみてとれて、読者が心から応援したいと思える、素晴らしい書き方だったと思います。主題の “ゆび” に品位を感じさせる構成でした。

 刮目したのは、表題にある太陽、及びへその緒という言葉が、本文中に用いられていない点です。それでいて表題は、命を繋ぐものとして主題と響き合っていました。
 樹の絶望から、生まれ変わりを示唆するように、彼の命を繋ぐものも、白い指になるだろうことが読みとれました。その病的な白さは、健康的な色々のなかで異彩をはなっていました。眩しい青空、果肉の黄色、咲の褐色の顔、木々の緑――

 そして、冒頭から文末にいたる修飾の細部まで、見本とすべき文学表現であり、良作品あふれるピリカグランプリのなかでも、卓抜した才能が行間から匂い立っていました。

 いっぽうで、軽自動車が時速200キロで走るなど、誤字なのだろうかと思える箇所がみられました。書かなくても伝わる “削っても良い” 主語や措辞もありました。
 しかし、それらは文学の本質部分ではないと思います。この度の評価にも何ら影響はありませんでしたが、これからの作品に期待したく指摘させていただきました。補って余りある良作品ということもできましょうか。あまり、校正せずにさらっと書いたのであれば、なおさら、その文才に驚かされます。
 
 作品のラスト、咲は樹にいいます。「…まあ、やってみ。そしてまた蜜柑の話でも書いたらいいやん」
 仮に、また蜜柑の話 “を” 書いたらいいやん、であったなら、かつて新人賞をとったのは、蜜柑の話だったとわかります。
 しかし、蜜柑でも題材にしてまた気軽に書けば良い、というニュアンスの “でも” かもしれず、味わい深く咀嚼しました。作品全体をより高みにおく素晴らしい一文だったと思います。

 いつの日か、樹は一皮剥けて生まれ変わり、褐色の指で物語をつむぐのでしょうか。
 是非、読んでみたいです。へその緒の切り落とされる運命が、ちらりと頭をよぎりつつ――

👑さわきゆり賞
camyuさん/こゆびくんと赤い糸

おやぶんにこゆびを切られたおじさんと、
おじさんから離れてしまったこゆびくん。

このお話は、かなしい過去を、
かなしい過去なのだということにも気づかず、
いつのまにか怖い人になっていたおじさんが、
ちいさな幸せをつかむラブストーリーです。

このお話のすばらしいところは、
切られたこゆびがこゆびくんになったとき、
赤い糸が現れたことだと思います。

       ※

ママを平気でぶつパパと、いそがしいママ。
そんな両親に、悪いことを悪いことだと教えてもらえず、
いつのまにか怖い人になっていたおじさん。

おじさんはある日、みきちゃんという女の子に恋をしました。
そして、みきちゃんに悪いことをやめてほしいと言われて、
おじさんは初めて、自分のしていることが、悪いことだと知るのです。

みきちゃんが好きだから、悪いことをやめたいおじさんは、
わざと仕事を失敗して、こゆびを切られてしまいます。
コロコロころがったこゆびは、手足が生えて、こゆびくんになりました。

それまで、おじさんのこゆびには、赤い糸がありませんでした。
こゆびを切られるまで、おじさんは悪い人だったから。
だからそれまで、みきちゃんとおじさんの赤い糸は、
つながっていなかったのだと思います。

       ※

おじさんに追いかけられて、怖くて逃げたこゆびくんは、
うまれたおうちに行きました。
でも、そこにはもう、おうちがありません。
そして、こゆびくんに赤い糸があらわれたのです。

このとき、こゆびを切られたおじさんは、悪い人ではなくなっていました。
うまれたおうちがあきちになっていたように、
おじさんの悪い心も、きれいになっていたのでしょう。

こゆびくんとおじさんが再会して、こゆびはおじさんの手に戻りました。
そのときのおじさんはもう、元のおじさんではありません。
だからこそ、こゆびがおじさんから離れて、
こゆびくんでいたときに、
赤い糸が現れたのではないでしょうか。

赤い糸は、みきちゃんにつながっていました。
泣きながら好きだと言ったおじさんと、
泣きながらにっこり笑って、うんと言ったみきちゃん。
それから、おじさんはまじめに働いて、みきちゃんと幸せになりました。

       ※

人は誰でも、知らないうちに道を踏みはずすことがあります。
おじさんは、踏みはずしていることにさえ気づきませんでした。

でも、人は必ず自分を変えられるということを、
「こゆびくんと赤い糸」は教えてくれます。
もしかしたら、痛い思いをするかもしれないけれど、
がまんして生まれ変われば、ちゃんと幸せになれると。

このお話の中には、たくさんの深い意味がこめられています。
もしも人生がつらくなったら、おじさんとこゆびくんのことを、
思い出してみてくださいね。

👑紫乃賞
バクゼンさん/ぐっぱ!

「ぐっぱ!」
タイトルが視界に飛び込んできたとたん、私の手が動いた。両手十本の指を、ぎゅっと握り、ぱっと離す。なかなか気持ちよい。だが、開かれた両手を見つめる私に、「指ヨリ掌ノ印象ガ強イヨウデス」とピリカグランプリ審査員脳が厳しく囁く。

まてよ、トップ画像の指はやけに短い。ふむ。もしかしたら足? 私は、作品へと目を進める。

俺は「おはよー」と言う代わりにベッドの中で足の指をぎゅっとした。

おお、やはり足! 即座に、両足十本の指を思いっきり内側へぎゅっとし、勢いをつけて跳ね返してみる。ああ、「ぐっぱ!」だ。両手なら「ぐっぱ」だけれど、両足なら「ぐっぱ!」な感じ。そして、まさしく「指」の感覚である。

新米介護士のピーくんの素直な発言。それに対するタクくんの冷静な的を得た心の声、ピーくんを心配する温かい反応。織り交ぜられる介護現場の専門的な情報。それらが、とても自然にテンポよく展開されていく。そして、作品に終始流れているのが、徹底的な明るさである。決して凝った文章ではないけれど、「生きている」。

     ・・・・・

私ごとになるが、娘と息子が幼少の頃、同じマンションに一緒に遊ぶ五歳ほど年上の女の子がいた。女の子のお父さんは、休日には小まめに、階下の広場で遊ぶ子どもたちを見守ってくださった。母子家庭で育つ私の娘と息子にとっては、時に父親代わりのようなおじさん。特に息子は非常になつき、度々おんぶや、肩車をしてもらっていた。

そのおじさんが、今から十年と少し前、娘と息子が高校生のとき、筋萎縮性側索硬化症(ASL)を発症、徐々に進行し、自宅で寝たきりに。

時は過ぎ、私たち家族は、そのマンションを去る。そして、今から三年前、息子の結婚が決まった際、息子の希望で、その報告をしにお宅を訪ねた。

おじさんも、おばさんも、私たちを快く迎えてくださった。おじさんは、既に眼球運動による、文字盤コミュニケーションの状態。そのお姿に愕然とし、正直言葉を失う。

息子は自分が無事就職し、結婚も決まったことを告げる。おじさんは、ゆっくりと文字盤の文字を目で追い、介護士の方の声で息子へ想いが伝えられる。まるで父親のようなお言葉だった。二人の目からは、大粒の涙が零れ落ちた。

そんな中、私が一番驚いたのは、とにかく、おじさんもおばさんも、明るいということ。声を出せずとも、身体を動かせずとも、明るさに満ち溢れているのだ。いっとき涙を流したおじさんも、その後、表情に動きはないままではあったが、心から笑っていることが伝わってきた。

     ・・・・・

バクゼンさんの作品を拝読し、私はこのご家族のことを思った。

生きるって本当に大変。でも、命さえあれば、生きてさえいれば、人は幸せになれる。明るくなれる。そのことを、バクゼンさんの「ぐっぱ!」が改めて教えてくださった。

バクゼンさんの「指」は生きている。
この作品を書いてくださって、ありがとう。
ふふふ、私も、明日もぐっぱするからね!

👑橘鶫賞

白鉛筆さん/ダストテイル、朧げ。

   ハンディキャップのある人の話をドラマティックに語ることは比較的容易い。時にドキュメンタリーであってもそのように語られたりもする。そしてその種の話が私は苦手だ。当事者が自ら望んで協力していたとしても、その奥にある彼らの本当の気持ちを知ることなく語って良いことだと思わないからだ。

 この物語を読み始めると、冒頭の数行で妹の右手が不自由だということが分かる。一瞬、私の中の警鐘が鳴った。
 しかし、極限までセンセーショナルな表現を削った淡々とした筆致に著者の思惑の影は見えず、瞬く間に物語の世界に引き込まれてしまう。

 主人公である「お兄ちゃん」は幾つくらいだろうか。五歳の妹の五歳年上だとして十歳。物凄く年の離れた兄妹だとしてもせいぜい中学生くらいだろう。その兄が、自由の利く片手で自分と連弾したいという妹を前に葛藤する。

身体の一部であるように自分を頼ってくれていること。
しかし、すべてをこの子に捧げられるわけではないこと。
心を鬼にし、ひとり生きていく強さを身につけさせてもやれないこと。

 そう。どんなに力になってやりたいと思ったって、全てを捧げるわけにはいかない。それなのに、安易な言葉を投げかけて良いものか? かといって全てを相手に選ばせることも酷ではないか。これは決してハンディキャップを背負った人に対してだけでなく、全ての人間関係においてそうだと思う。
 どんなに仲のいい人でも、大切な人でも、自分の人生全部を誰かの為だけに使うことはできない。それなのに、相手の人生にどこまで踏み込んで良いのだろう。

 この物語の中に答えはない。その代わり、そこには彼らの世界が確かに存在している。私たちは自分でその中に答えを探す。
 1200文字で物語を完結させるのはそれはそれで技術が必要だが、それがそのまま1200文字の物語で終わってしまっては勿体ないと個人的には思う。ひとつのエピソードをきれいに完結させつつ、その先を感じさせるようなそんな物語が好きだ。

 子供の頃にこんな風に葛藤できる兄は、きっと素敵な大人になるだろう。
終わりの方の「今、行きます」というひとことにぐっときた。それが彼の決心に思えたから。
 今はまだ無邪気な妹は、きっとこの先何度も壁にぶつかりながら、それでもこの兄と一緒ならば、そう悪い未来ではないのではないかという淡い期待。
 彼らの羽ばたいていく先を、このままずっとずっと、見ていたいと思った。

👑猫田雲丹賞
豆島圭さん/断たれた指の記憶

ニンマリ笑い、私の頬をそっと撫でる祖母の指は、あの日と同じように温かかった。

ストーリー、技術、お題の活用、
その全てにおいて高水準。
読了後、思わずうっとりとしてしまうほどに
魅力的な作品でした。

冒頭から淡々と描かれていくのは、
「私」と祖父の悲劇の記憶。
やがて、その悲劇性は急激に様相を変えます。

ところどころに散りばめられた不穏の種が、
後半で一気に芽吹く様はまさに圧巻。

そして、対比的に描かれる祖父母の2人。
形は違えど彼らを突き動かすのは「私」への愛。
猥りがわしい指と、温かい指。
性愛と、慈愛。

凶行に及ぶ2人は
それぞれ狂気を帯びているにも関わらず、
片方の愛は美しく際立ちます。

どこかやわらかい読後感が残るのは、
こうした練りに練られた構成と
確かな文章力による賜物。

1196文字とは思えない、
濃密で劇的なストーリー。
「ゆび」というテーマが効果的に描かれ、
最後には愛へと帰結する展開。

唯一無二の存在感を放つ、美しい作品でした。
短い中に作者のセンスと力量がグッと詰め込まれた、
まさに名作。

私から賞をお贈りするのも
おこがましいほどの完成度です。
こうした小説を自分でも書けたらなと、
羨慕の念を抱かずにいられません。

👑穂音賞

泥辺五郎さん/「指の綾子」考

昔書いた掌編小説で「指の綾子」という話がある。題名は覚えているのだが、内容をさっぱり思い出せない。


 周りの空気が一変してしまう作品があります。
 虜になる、というより絡め取られると言う方が正確でしょうか。
 この世界に入ったとき、まず感じたのは「湿度」でした。木造家屋の、きちんと掃除されて整えられているのに、どこか黴の気配が拭いきれない部屋。この世界には指だけで生きられる医療の進歩があり、パソコンやスマホがあり、それなのに圧倒的な時間の巻き戻りがあって、風景はモノクロで、指だけに生々しい色がついているのです。
 指だけが、生きている。

 そこで聞こえる音は、無声映画の弁士のような淡々とした声だけ。いえ、耳をそば立てるとパソコンを打つ音が、微かに。


私はそんな彼の指を愛してしまいました。指以外は必要ありませんでした。彼の指を切り落とし、残りの体は捨てました。

 以前に書かれた筈の掌編「指の綾子」は、もはや存在しません。「彼」にも思い出すことができません。なぜならば「彼」は、
 指だけで、生きている。

 いまや「彼」は、食べることも、綾子を抱くことも触れることすらもなく、ずっと文章を打ち続けているのです。けれども、常に幸福感に包まれている。指の美しい女性の出てくる私小説とファンタジーが混じった作品だけを書きながら。
 指だけを、生きている。


「指の綾子」は、綾子の中にだけ残されています。
 ねえ綾子さん。貴女はそれを他の誰にも読ませたくないのでしょう。自分一人のものにしたいのでしょう。
 透明な夫の傍らで、貴女に見えているのはそこだけなのでしょう。
 指だけと、生きている。

 そして、冒頭と見事に呼応するラスト。

綾子について書こう。綾子の指について書こう。昔「指の綾子」という掌編小説を書いたのだが、内容がさっぱり思い出せない……。



 このような凄まじい作品を生み出される泥辺五郎さんに、心から敬意を表します。
 でも私、本当は泥辺さんのことがちょっとこわいんです。
 だってほら、泥辺さん、あなたは

 指だけ、なのでしょう?

👑ピリカ賞
くまさん/われらのピース

    まずは、タイトルに惹かれた。

「ゆび」がテーマの今回のグランプリであったので、指の名前や、「~の指」というタイトルの作品が多い中、ひらがなの「われらのピース」というタイトルが、物語のなかに私をスッと誘ってくれた。

このように同じテーマの作品を多数読むとき、タイトルはやはり大事な要素だ。
インパクトはもちろん、作品の色合いを投影しているか。あるいは、本題にはいるまでの誘導役でもあるかもしれない。

これが、「我らの~」という表記ならまた違ったかもしれないな、と思う。
ここは偶然なのか推敲の末なのか、作者のくまさんに聞いてみたいところでもある。

いつの時代も、親子というのは不思議だ。

本人同士は全く異質のつもりでも、他人から見ると「そこ、根っこはいっしょじゃん」という親子はたくさんいる。

あんな風にはなるまい、と父を反面教師のように自分を律して生きてきた医師も、父と自分の根底はいっしょだと気づいているのではなかろうか。
このあたりの心的描写も丁寧なタッチで書かれていて、読者はどんどん自らを重ねながら感情移入していくのである。


ある患者の指の動きで大切な親子のサインを思い出す医師。

その指のなんと優しいことか。それを思い出に持つ自分が、どんなに愛された存在だったか改めて感じたことだろう。

特別な、われらだけのサイン。

この作品の「ゆび」には血の通う、親子のあたたかな体温があった。そのしあわせな温度に、私は拍手を送りたいと思う。

今回のグランプリでは、過去回をしのぐスタイリッシュな作品やキレのある作品が揃っていた。その中で奇をてらわない実直な文章は却って私の心を捉えた。

私はあえてこの作品が持つ「素直な温かさ」を推したい。

そして、読後考えるのだ。
私が子どもに残すなら、なんのサインにしようかな。なんてね。

👑Marmalade賞
樹立夏さん/「ファティマの指」

初めに。
春ピリカグランプリに参加してくださったすべての皆様へ。
心から敬意とお礼を伝えさせてください。ひとつひとつ読んでいく中で、「指」というお題に対して集まった111本の作品全て、怖くて震えたり、感動して涙したり、ドキドキしたり、と忙しく楽しく読ませていただきました。作品が、それぞれの作者ご自身の大切な一部として羽を生やして自由に飛んでいる、そんな風に思えて胸がいっぱいでした。1200文字って短くて大変だけど、すごい力を持っています!書いてくださって、読ませていただいて、本当にどうもありがとうございました。

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 樹立夏さん「ファティマの指」にMarmalade賞を贈らせていただきます。主題、構成、ストーリー、余韻、どれをとっても素晴らしい作品はたくさんありました。そんな中、この物語にはとても大きな視野を持つ力が根底にありました。それは私自身、これからの地球、世界を支えていく人たちに、今考えてほしい、知ってほしいと願うことと合致しました。物語の中では決して直接的には語られていない平和への祈り、そして世界中で懸命に生きている人々に心を寄せるようなそんな大きな視線がありました。それが選ばせていただいた決め手となった部分です。

 ファティマには左手の指がありません。戦火を逃れ日本に難民として暮らすようになったのか、もしくは日本人の夫をもち、日本に逃れてきたのかはわかりませんが、戦争や内紛という人間の欲が生み出した怪物の犠牲になり、指だけでなく、傷つき故郷を失ったことは行間から伝わってきます。故郷を虹の向こうに例え、そこにはもう行けないまま旅立ったファティマに想いを寄せながら、力強く生きていく娘の視線からの物語には希望がありました。

 これはどこの国を舞台にしているのだろう、と文中に散りばめられたヒントを集めて考えたのです。白い民族衣装、瓦礫の街、各国から集まる医療スタッフがいるキャンプ地、トラ、雪をいただく高い山、青い川、そして、ファティマという名前。戦争、内紛の続く国がいくつも当てはまりましたが、途中で、特定する必要はないんだと思い至りました。だって、この世の中にはたくさんの豊かな暮らしをする人々がいる一方で、こうした場所で懸命に生き抜いている人たちがそれ以上にたくさんいるのですから。

 主題、という意味でとても良かった、ということと同時に、樹立夏さんの文章が私は好きです。可憐ですが、本当はとても強いすみれの花のようです。言葉選びも文章もそして行間にある作者の思いも。

 最後に、これを書こうかどうしようか本当に迷っているのですが、やはり書かずにはいられなくて、書いてしまいます。今回この講評を書くにあたって、ファティマの指、と検索したんです。すると、そんな名前のチュニジア料理があると知りました。なんてことでしょう。サクサクしているそうです。あら、やだ、締めくくりがこれじゃ困るので、もう一つだけ。

 ファティマで検索してみました。アラブ圏の名前のようです。敬意を評してつけられることが多いとか。一方で、ポルトガルにはファティマという街があります。そこではファティマの聖母、と呼ばれる奇跡があったとカソリック協会が承認しているそうです。イスラム文化とキリスト教と併せ持つ名前はまさにこの物語にぴったりです。どうか世界中の人たちが安心して暮らせる日が早くきますように。


以上、9作品!!

なお、すまスパ賞9作品とともに、副賞としていぬいゆうたさんによる朗読が贈られます!すごいよね!
朗読はこちらから↓


皆様の作品のひとつひとつ、私たち審査員はなんどもなんども読ませていただきました。

1200字という規定の中で、みなさんが繰り広げる「ゆび」の物語に驚き、笑い、嫉妬し(笑)大いに楽しませていただきました!!

各回で書いてますが、創作に正解はありません。
選ぶ人が違えば、受賞作も違います。
これが2000字までのグランプリなら、また違う方が選ばれたかもしれません。

審査員になったつもりでの、私選記事も大歓迎です!!
よかったらどんどん、他の作品読んで、繋がってくれたら嬉しいです。

最後になりましたが、春ピリカ開催に関しましてサポートやご協力、記事での応援をいただいたみなさま、本当にありがとうございました!

また、時が満ちましたらお会いしましょう!

ピリカグランプリの賞金に充てさせていただきます。 お気持ち、ありがとうございます!