見出し画像

何者でもない私と『ギフト』をもらった彼女のこと

大学時代の先輩の名前を、ふいに本屋やネットで見る事が増えた。

彼女は学生時代から飛び抜けた実力を持っていて、さまざまな賞を軒並み受賞していた。才能がある、ということなのだろう。

私は、学生時代に彼女のことを認識しておきながら、彼女と親交を結ぼうとはしなかった。彼女を近くで見つめることなど、辛くてできるはずがなかった。
多分、彼女のようになりたくてなれなかった学生は、たくさんいただろう。素直に賞賛だけ、できるわけがない。私たちは皆、物書きだった。

「書くこと」はきっと、神さまが彼女に与えたギフトだ。そうやって生きていくことが決まっていたみたいに、トントン拍子にキャリアを重ねている。

同じ学び舎で学んだのに、いまの私と彼女の間に歴然とした差があるのは、なぜだろう。本屋やインターネットや、雑誌のなかに彼女の名前を見るたびに、胸の奥に真黒な感情が渦巻いて、やりきれなくなる。彼女は何も悪くない。何者にもなれない私が悪いのだ。

いっそのこと、「書くこと」など諦めてしまえばいいのに、と思ったことが、何度もあった。諦めて、それなりに仕事をして、どうにか食いつないでいけばいい。器用貧乏な私は、きっとどんな仕事もそれなりにこなせるだろう。

そうしたらきっと、もうこんな苦々しい気持ちにはならないだろうと思った。だって、私は、舞台からおりたのだから。後は気楽な観客の身。舞台の上で戦う彼女たちを、のんびりと見物していればいい。

実際に、書くことを諦めて別の仕事をしたことがあった。やりがいもあったし、もっと知識をつけていきたいとも思って、その仕事について学んだこともあった。それはそれで、充実していたし、楽しい日々だった。

なのに、程なくして、思いがけず「書く」仕事が私の元にやってきた。
逃れられないのだなあ、と知った。

神さまが彼女に与えた、「書くこと」というギフトは、きっと私にも与えられていたのだ。だって「書くこと」は、教えられる前からずっと得意なことだった。私にとって、呼吸をする事や食べる事と、同じくらい自然な行為だ。
そしてそれは、私を私たらしめる行為でもある。

だから、きっと、私はずっと逃れられない。
「ギフト」を与えられる事は、それと向き合う義務も、同じように引き受けなくてはならないという事なのだ。

彼女はきっと、私よりもずっと長い時間、私よりも遙かに真摯に、その「ギフト」に向き合ったのだろう。私と彼女の立ち位置の差は、私が何者にもなれない理由はそこにある。

今からでも、遅くないことを祈りながら、私は今更ながら、書くことに向き合っている。




「スキ」してくれた貴方には向こう1日の幸せを約束します!