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花びら

大学時代は「映画をつくる」という、とても贅沢な学問を享受していた。

なにせ20年も前のことだから、うろ覚えではあるのだけれど、大学1年生の最初の課題が、三人一組でチームになって、映画を撮るというものだった。と思う。

それぞれが監督になって、あとの二人を役者にして、8ミリカメラをもってキャンパスに飛び出す。それぞれ即席で脚本を考えて、絵コンテを書いて、演技指導をして、言葉のない短編映画をつくる。ルールは8カットで撮る。たしかそんな感じだった。

コース一可愛い女の子と、ちょっとクールな長身の男の子と同じチームになった。

まだ桜が残る4月だった、と思う。

私が考えた話はたしか、「青空の下、同じ桜の木の下で」みたいなタイトルだった。

女の子と男の子が同じベンチにちょっと離れて座っていて、女の子は楽しそうに読書をしている。男の子はヘッドフォンで音楽を聴きながら寝ている。

二人は他人の設定。同じベンチに他人同士で座るってあんまりないけど、でも他人の設定。

ヘッドフォンからの音がうるさくて、女の子は男の子に注意する。
でも男の子が起きないので、揺り起こそうと肩に触れたら、男の子がベンチから倒れて、鞄から大量の薬がでてきて、実は男の子は死んでいたという。

この恥ずかしいほどチンケな話で、私が伝えたかったのは、

青空の下、同じ桜の木の下で、同じベンチに座っていても、
それぞれのバックグラウンドや置かれている状況や考えていることは全然違う、ということだった。

「良くわからない」と評価を受けたけれど、映画の最後の「Fin」の演出は褒められた。

キャンパスに大量に落ちていた桜の花びらを画用紙に並べて、映画の終わりを意味する「FIN」を形作った。
パタパタと横からノートであおぐと、桜の花びらは飛んでFinは消えていく。

パタパタあおぐノートが画面の端に映り込んでしまっていたけれど、最後のFinを工夫したところを先生は褒めてくれた。ことを覚えている。



同じ場所で同じ時間を過ごしていても、考えていることも状況もちがうということを、18歳の私はわかっていたはずなのに。

最近の私はついついそれを忘れがちだなと、20年前を振り返って反省する今日この頃です。








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