実録 ドラキュラ菜園に立つ  1

プロローグ ー 夜型園芸人間のささやかなるプロフィール

わたしは自由業歴20年だが、締め切り仕事を20年もやっていると、すっかり「なんとしても締め切りの帳尻を合わせるだけのために生きる」という体質が染みついてしまっている。平たく言うと、夜なべして朝近くに原稿をあげて、終わらせてから休む、というルーティンが定着してしまい、トランシルヴァニア時間に生きる目の下のクマの濃い民族なのである。(※もちろん世の中にはわたしと同じ職業でもきちんと早寝早起き、自分を律するすばらしい方々は沢山いる。眩しい限りであり、そういう方を見るとわたしはその眩しさに溶けてなくなってしまいたいような恥ずかしさを感じるのである。しかし我が家の家訓は「よそはよそ、うちはうち」である。)

しかし、そんな自分とアンビバレンツに、わたしは朝型健全生活を好むイキモノ、植物を育てるのがたいへん好きでもあったりする。好きであるが、マンション暮らし、庭はない。かくして集合住宅型園芸アプレミディ部省力派17年、いろいろ人生の選択を間違えている気がするが、人生はままならぬもの、その中でベストを尽くそうじゃありませんか。

ベランダ園芸では、最初はミニバラなどを育てていたのだが、ここでも理想と現実の乖離があり、春はビル風の嵐が吹き荒れ夏は強烈な西日、そしてその割にコンクリートの塀のおかげで日当たりの良くないゾーンも多い(しかも壁の色も暗い。なんでこんなところに住むことにしたのかわたしのバカ。まあそんなこと今更言っても仕方がない、引越しの予定もないことだし)、しかも農薬も撒かない。という悪条件のベランダはしょせん高貴にして繊細なバラ様をお迎えできるような場所ではなかったのである。


(在りし日のバラ様。今はもういません。)

厳しい淘汰の歴史を経てだんだん手間いらずの強者のみが生き残り、今ではベランダのスタメンはゼラニウムに多肉植物、ハーブに樹木、いぶし銀(地味とも言う)優等生たちだ。ちょっと物足りないが、仕事の合間にちょっとしか世話できないのでこのぐらいがわたしの身分相応であろう。

(ちなみにほったらかしでもクレマチスだけは毎年お化けのように咲いてくれる。咲きすぎてやや困惑している。なんというか、もう少しこう、可憐に咲いてほしいのだが、いかんせん彼らの自己顕示欲と領土拡大の野心は激しすぎるのである)

たいていの趣味というものは(恋愛などもそうかもしれないが)最初に狂熱のピークがあり、その後穏やかな愛情と倦怠の入り混じった慣性走行になっていくもので、わたしの園芸との付き合いも、蜜月時代は過ぎ、昨今は水やり以外大したこともしない惰性の日々であった。のだが。最近、ちょっとした気まぐれに、野菜を育てはじめた。育てて、といっても全然たいした事はない。ベビーリーフやらバジルやらロケットやらの種をまいたり、夕飯に使ったワケギや三つ葉の根をたわむれに埋めてみたりとか、たまにプチトマト、とかそんな程度だ。そうしてみると、野菜の成長とともにわたしの乾いた園芸欲の土壌も再び水を吸い潤ってきたのである。近所を散歩していると市民農園があるのだが、通りかかるたび、貧弱なプランターと弱い日差しで育つうちのか弱い野菜を不憫に思い、ああ、あのような肥沃な土壌と降り注ぐ太陽の光があったらば。地上のパラダイスだね市民農園。と横目に羨望の眼差しを送っている日々なのだった。(つづく)

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