告白する勿れは真か偽か

三島由紀夫の不道徳教育論を読む中で、一つ面白いコラムがあった。テーマは「告白するなかれ」。前の恋人が酷かっただの、家庭環境が不遇だのと、人は自分の境遇を告白しがちだが、(三島はこれを告白病と呼ぶ) ありのままの自分を愛して欲しいだなんてことはただの傲慢に過ぎない、とのこと。

また、話された方としては自分の人を見る目が無かったと自尊心を傷付けられ、誰も幸せにならないというのだ。誰しも人生が小説ではなく現実である限り大変醜悪なものであり、それは他人には到底受け入れられる類のものではないという。確かに、人に自分の何かを曝け出すという行為は大変ナルシズムに基づいていると思う。こんな経験したんだぞ、という自負とその上で自分を受け止めてくれるかという愛情を測りたい欲望を誰しも潜在的に秘めている。そこに対して自制心の強さにより大小はあれど、酒や辛い事があったなどのきっかけで氷山の奥深くから表面化してしまう事も多々あるのではないだろうか。

イトウが思うにそもそも、告白の内容よりもそのナルシズムが垣間見えることが醜悪であり、嫌悪感を誘うのではないかと思う。人間関係を築く中で表面的な部分だけ共有する事は、気持ちの良い関係を作り上げる上で重要だと思う。居心地が良いかは別だとして。三島由紀夫の語る告白する勿れ、は人として成熟し完全に独立した個人同士の大人な人間関係を構築する上での一種の作法のような気がした。

しかし、全ての人間関係で適用する事はやはりまだ精神年齢が低いのかどこかに違和感があり、受け入れたくないと思ってしまう自分もいる。色んな事柄に年齢制限があるように、人間関係の作り方もきっと年相応のものがあるんだと思う。むしろ若い時分こそどんどんと告白して内面を曝け出し、他者とぶつかりながらも和解する経験をしていくべきだし、それが出来なかった人はどこかでやはり不完全なのではないかと思う。告白病を若い頃に発症しておらず、表面的な人間関係だけを築いてきた人ほど、誰かに理解され愛されることを年齢と共に潜在的に渇望し、相手や場所を選ばず的外れな告白をしてしまうのではないだろうか。これを後発型告白病と仮定しよう。こちらの方が相当に厄介だと思う。大人になってからかかるおたふく風邪のように。年齢を重ねれば重ねるほど、告白の内容は醜悪なものになっていくことは当たり前だと思う。これを人前で嬉々として告白してしまうので、告白してしまう側もされた側もそれこそ不幸でしかない。

口は災いの元、と口を閉ざし続ける事が決して正ではないと思うが、三島の言うように大切な相手だからこそ全てを理解してもらおうとせず敢えて口を閉ざすと言うこともある意味正なのであろう。

#三島由紀夫 #コラム #エッセイ #不道徳 #教育 #告白

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