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倶楽部サピオセクシャル日記120:自我の確立と自己定義はどう違う? 「定まらぬ自分」との付き合い方を語り合ってみる

本日は雨模様。「春に3日の晴れなし」というが、雨が降るとランニングに出られないので、微妙にフラストレーションがたまる。とりあえず、身体を動かすべく、最近はまっているのが自衛隊体操。

ラジオ体操の自衛隊版みたいなものだが、さすがに軍隊用だけあって、それなりの運動量がある。陸自・空自編と海自編があり、前者の方がややキツいのは、なんとなくうなずける。

というわけで、陸自・空自編を終えたところで、今週のまとめを書いてみる。


◆話が通じない人は自我が定まっていない

今回のテーマを思いついたのはぼくである。ルームでトラブルが起きた際にはいつも「話が通じない」と感じる。こちらの言葉を聞かない。文脈を理解しない。散発的に一般論や感情論を投げてくるが、その目的や話す意味を語らない。

徒労感しか残らない対話はなぜ生まれるのか、と考えたとき、答えのひとつとして思いついたのが「自我の確立不全」であった。自身は何者であり、何者として行動しものごとを選択するのか、定まっていない人間を理解するのは不可能だ。

本人が理解できていないのみならず、「このような人間である」という対外的なたてつけも完了していないのだから、他者は理解のスタート地点にすら立てない。

今回のルームでは「自分のことだと思ってドキッとした」という方もいたが、不思議なことにご本人の認識とぼくの見立てにはかなり大きな差がある。自身の自我を危ぶむ方は概ね、自我の「枠」はきちんとできているように感じられるのだ。

「枠」の内側はうかがい知れないが、少なくとも外界と隔てる境界の揺らぎを意識している人は、それによりトラブルが起きる可能性を認知している分、付き合いやすい。問題があるのは、自我の揺らぎが他者に及ぼす影響を認識できていない人である。

◆海外暮らしで危うくなる自我

今回、出てきた話題の中で興味深かったものに「海外在住による自我の危機」がある。これは「X」にも書いたのだが、他者と関わる際には価値観のすり合わせを要する。言い換えれば、お互いに自我を削り合うことで、摩擦を減らして共存するのだ。

異なる文化圏で暮らすと、毎日が大きなすり合わせの連続……というよりも、一方的に削られる日々に違いない。相手の価値観をまるっと受け入れてしまう方が楽であり、気がつくと私の自我はどこにいった、ということになるものと思われる。

生まれ育った国や地域、家庭の文化は自我が立脚する基盤である。それゆえ、文化の違いはときに、激しい対立を生み出す。「文明より文化が大事」と語った方がいたが、平和に視点を置くなら、文明の方が価値が高い。

文化を形成する価値観には大きな差異がある。古い文化ほど狷介固陋であり、異文化との融合性が低い。わかりやすいのは宗教文化だろう。価値観に基づいて生活習慣全般に根を張るものであり、特に一神教同士のすり合わせは難しい。

日本のような多神教であれば、他文化の神も「八百万のお一方」として受け入れられるが、キリスト教やイスラム教ではそういうわけにいかない。どっちの神が正しいかを巡る闘争が今なお続いているのは、文化がはらむ毒性の象徴に思える。

一方、「利得」を目的とする文明は万人が共有しやすい。自我とはつまるところ、自己利益を追求し続ける意志の別名ではなかろうか。

◆WHYの繰り返しで明確化する自己定義

海外暮らしが長い方の例は極端だが、そこからは「自我の不安定性」が見えてくる。自我はいったん確立したとしても、その状態が自動的に保たれるものではない。放置すれば環境に削られ、腐食するので、常に強化し続ける必要がある。一種の新陳代謝により、維持できるものなのだ。

 逆に言うなら、維持に努めなければ国内暮らしであっても容易に崩れるだろう。そうならないよう、たいていの人は社会と関わる中で、無意識のうちに維持管理活動をしているが、意図的に維持管理を行いたい場合は、「WHY」を意識しながら暮らすとよいだろう。

 自身がなにか行う際には、常に目的を考えるのだ。「なぜ、これをするんだろう? 自分はなにを得るつもりなのだろうか?」と、考え続けることで、自身をドライブする感覚が強まる。環境や社会に流されて行っているかに思えることにも自分なりの「WHY」は必ず潜んでいる。

「上司に嫌われたくないから」「とりあえず、この場を丸く収めたいから」「仲間うちで空気が読めないやつになりたくないから」等々、行為には理由があり、それに基づいて実は自分が主体的に判断しているのだ、と気づけるはずだ。

◆まとめ

自我が確立されていない人は、状況に反応する傾向が強く、立ち位置が見えない。本人も自身の意志がどこにあるのか――なにを大切に思い、そのためにはなにを失う覚悟があるのか、定まっていないのだろう。

本人が自己利益を追求することすらできていないのだ。他人からはただただ混乱が見えるのみである。

繰り返しになるが、世界と自身の有り様を決めるのは理解ではなく定義である。かならずしも100点満点でなくていい。間違っていようとも、定義する覚悟により自我は形をなすものだ、とぼくは信じている。


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