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倶楽部サピオセクシャル日記㊾ 無意味の中に意味を見いだすのが知性? わびさびとかネガティブケイパビリティ等々について考えてみるルーム

本日は秋晴れ。晴れ渡った空を眺めつつ、ふと頭に浮かぶのは「天気晴朗なれど波高し」という言葉だ。

定期開催しているルームが珍しく荒れた。日曜日に早朝から運転しなければならなかったので、ぼくは早めに退出したのだが、その後で嵐が起きたようだ。タイトルを立てた時点である程度の波浪は予想した。ただ、自分が抜けた後になって起きるのは想定外だった。

相方のつよぽんさんに申し訳ないことをしてしまった。

◆無意味と意味の関係について

今回のルームタイトルは「無意味の中に意味を見いだすのが知性? わびさびとかネガティブケイパビリティ等々について考えてみるルーム」というもの。無意味と意味は表裏一体をなす言葉であり、使用に際してリスクをはらむ。特に、さまざまな余裕を失ってしまった国内社会では意味を効率よく追求することが善とされ、必然的に無意味は悪と見なされるケースが多い。

障害者や高齢者など、弱者の存在がその論に寄せて語られることもあり、「支援」をライフワークとする相方にとっては看過できない問題だろうと感じる。

もともと、無意味・意味の判断は主観の中にのみ存在する。ある人にとって「縁が欠けて使いにくく、みすぼらしい茶碗」が、別の人にとっては「さびの結晶」となる面白さこそ、日本人が持つ独特の知性であろう。

主観が持つ幅に知性のきらめきが存在するのであり、客観的な評価として画一化する作業はとても味気ない。「アートとミリタリーのいずれに生きる楽しみを見いだせるのか?」というたとえはわかりにくいだろうか?

ならば、もう少し共感を得やすいよう、あるストーリーを語ってみたい。

あなたを可愛がってくれていたお祖父ちゃんがある日、河原で石を拾ってきたとしよう。傍目にはなんの変哲もない石だ。きれいでもなんでもない。お祖父ちゃんはその石に名前をつけ、日々、やわらかな布で丁寧に磨くようになった。

10年以上もそんな風に石を大切にしていたお祖父ちゃんが亡くなった時、あなたは一切の感慨なくその石を捨てられるだろうか? 「なんの役にも立たない無意味な物体だからゴミとして処分できる」という人をぼくは否定しないが、友だちになれない。

つよぽんさんは「意味に殺される」と語った。意味が人を殺す社会では、多くの人が「お祖父ちゃんの石」をあっさり捨てるだろう。殺伐としたその社会において、他にも多くの弱者が切り捨てられることになる。

切り捨てる側は無意味を排したことに快感を覚えるのかもしれないが、彼らは自身が無意味な存在と見なされるリスクを理解していない。脳内でちょっとした出血が起きただけで、人はあっという間に機能不全に陥る。健康を長く維持したとしても、最後には老いて生活を賄えなくなる。

誰もが最後は無意味な存在と見なされて生を否定される社会に意味を感じられるのだろうか?

◆究極の問い 生きる意味はあるのか?

スピーカーの1人から出た問いが、興味深かった。その方がつながっている人物には希死念慮があり「生きる意味はあるのか?」と語っているという。

さまざまな知見が寄せられたが、ぼく自身は「生きる意味」は最初から人にセッティングされているものではない、と思っている。DNAにセッティングされているのは死への恐怖だけだ。生きるのにそれで足りないなら、自ら探しに出かけたり、作ったりする必要がある。

ただ、そういう問いを発する人は生きたいのだろう、と容易に想像できる。ならば、薬に頼るのもありだ。生きる意味を幸福に求めるなら、脳内に特定の物質を送り込みさえすればそれはかなう。意義深い行為による達成感も、ジャンキーが一発キメた際に感じる快感も、脳では同じ現象として観察される。この事実を知れば、無意味と意味の境界なぞ存在しない、とすら言える。

どうしても、生が辛いなら、終わらせるという選択肢もある。いずれにしろ、生には100年くらいの猶予しかない。いつ終わらせるのかを自身で決められる、と思えば恐いものがずいぶん減るはずだ。

同年代の方が同じことを語られたので、これは年齢により得られる覚悟なのかもしれない、とも思うが。

◆怠惰が生むディスコミュニケーション

ぼくがルームを出た後で起きたらしい騒動についても、書いておかねばならない。ちょっと気が重いが。

ここ数回、ルームの有り様について、スピーカーの方から繰り返し要望をいただいてきた。総じて言えば、話に方向性を持たせて欲しい、というものである。対話ではなく議論を望む人が一定数いるようであり、知的な会話を好む方が来てくれることについては感謝している。

ただ、モデレーターをつとめるぼくとつよぽんさんにはルームを議論の場にするつもりがない。「絶対にしない」と決定しているわけではなかったが、「やらねば意味がない」というのであれば、「やらない」と答えることになる。

いちおう説明しておくが、アマノジャク的な性格による決めごとではない。ぼくらは単に「対話」を楽しみたくてこのルームをやっているのであり、「意味」を創造しようとは思っていない。だから「前に進む議論」はやらないのだ。

あるスピーカーの方が「うどん屋に来てドーナツを出してくれというようなもの」と評してくれたが、そういうことである。ドーナツは置いてないし、作るつもりもない。メタファー的に言うなら、油が飛び散って火傷をするのが嫌なのだ。

もう一つだけ、議論をしない理由を付け加えておく。議論をしたがる人は総じて言葉が粗い。荒いとは言わないが粗い。他者へのリスペクト――アイデンティティに対する尊重が不足している。

「真理の追究もしくは共有において、他者の心に配慮した言葉を丁寧に選ぶ必要などない」という姿勢が透けて見える。実際、それに近いことを語った方もいた。

そう思うのは自由だが、ぼくにはその言を受け入れるつもりはないし、相方も同じだと思う。多分に事実と反する見解であるからだ。使う言葉に配慮が足りないのはもっぱら、語り手の怠惰やマウントをとりたがる性向に起因する。崇高な目的を掲げることでそれを糊塗しようとする言はいかにも小賢しい。

◆まとめ

事情で途中退席した自分が悪いのだが、いなくなった後でルームが荒れたことは腹立たしい限りだ。

自身にとっては無意味に思えることに意味を見いだす人がいる――この事実を理解し尊重できない人は幼児に等しい。

うちのルームには大人になってから来てください。上から目線で申し訳ないが、そう思う。

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