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倶楽部サピオセクシャル日記114:それ贈っちゃダメ! 絶対ダメ?今夜はプレゼントの意味とお作法について考える

昨日から東京に来ている。ただいま、14時半。帰路の飛行機が飛び立つまでまだ少し時間があるので、羽田のラウンジで暇をつぶし。

東京に来ると、いろいろな人に会わねばならず、中でも最近懇意にしているクライアントは二次会までがっつりというタイプである。次回は逗留をもう少し楽しめるよう、2泊くらいするか。


◆髑髏マークのTシャツはありか?

前回、子どもの頃の思い出を語る中で、プレゼントの話が盛り上がったため、今回のテーマを設定してみた。この話題になると、毎回興味を引かれるのが相方の逸話である。あろうことか、奥さんの誕生日に「髑髏をあしらったTシャツ」を贈った、というのである。

「誕生日に髑髏」といえば、有名人の奇行が想起される。元旦に髑髏を持って町中を巡ったという一休禅師の逸話である。当時は数え年が一般的だったので、元旦はすべての人が年をとる日――誕生日に類する記念日であった。

一休さんは「メメントモリ」を意図して髑髏を掲げたようだが、つよぽんに理由を聞くと「似合うと思ったから」という。そう評されて、奥様はどのように感じたのか、ぜひとも知りたいところである。というわけで、相方の奥さんインタビューを敢行することになりそうだ。

◆聖なるギフトと俗なるプレゼント

今回、ぼくがあらかじめ考えた裏テーマが一つあった。「ギフトとプレゼントはどう違うのか、英語圏のネイティブスピーカーに聞いてみよう」とう試みである。ネイティブの常連さんが示してくれた答えは、興味深いものだった。

ギフトは見返りを求めない聖なる贈り物――才能を神からのギフトと呼ぶように。一方のプレゼントは見返りへの期待がどこかににじむ俗なるものである、というのだ。

スピーカーの中に、友人とのお付き合いにおいて「ことあるごとに物品を贈ってくれることがとても負担に思える」という方がいた。ギフトとプレゼントの違い、というお話を受けて、「プレゼントだと思うから、お返ししなきゃ、と辛かったのだけど、ギフトだと思えばいいんですね」と納得されていたのが、興味深かった。

どの言葉をあてはめるかによって、認識が変わり心が楽になった、とおっしゃっていただけたのは、モデレーターとしてはたいへん素適な体験だった。

◆人はなぜプレゼントを贈るのだろう?

今回のルームを経て、ふと考えたのは「人はなぜプレゼントを贈り合うのだろう?」ということ。ものを贈るという行動は、実は人に限らない。子どものころ、ご近所から子犬をもらい受けたことがあったが、母犬はときどき我が家にやって来ては、自身が食べたドッグフードを吐き戻して子犬に与えていた。

あるいは、チンパンジーなど高度な知性を持つほ乳類の場合、プレゼントをばらまいて支持者を集める行為が見られるという。一種の賄賂だが、ボスを決める際にプレゼント行動が役立つケースもあるそうだ。

人においてはプレゼントは物品に限らない。ちょっとした気遣いであったり、嬉しい言葉であったり、形態はさまざまであり、「お返し」への期待にも千差万別がある。喜びを示してくれれば十分、という関係もあるし、同等の価値を求めるケースもあるだろう。

いずれにしろ、贈る側は一定の意図を持っているが、受け取る側が必ずしもそれを共有できるとは限らないし、共有したいかどうかも本来は不明である。そう考えると、プレゼントはもちろん、ギフトですら基本的にはきわめて利己的な行為なのだ、と認識しておいた方がよさそうだ。

◆まとめ

人と関わって生きている以上、ぼくらは普段から目に見えないプレゼントを贈り合っているのだ、と考える。喜ばれるものばかりではないし、もらって嬉しいものばかりではないのだが、とりあえず贈り合える相手がいる、という幸せもあるのだろう。

考えてみると、サピオルームでも毎回、さまざまなプレゼントをいただいている。あらためて感謝。


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