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胎盤を食べる予定はないけれども。

2022年の末、東京都写真美術館で開催されていた星野道夫の写真展に赴いた。

はじめに目を引いたのは、
カリブー(トナカイ)の親子の写真。母親が胎盤を食べている。

私は現在10ヶ月に入った妊婦で、いわゆる臨月という時期に差し掛かった。子宮口が全く開いておらず生まれる気配が微塵もないので、例に漏れず産婦人科の先生に「積極的に歩いてください」と言われている身分である。
近所を歩いても退屈なので企画展にふらり足を運んでみることにした。

海よりも山、夏よりも冬が好き。アラスカは新婚旅行でけっこう本気で行こうとしていた。
もちろん、星野道夫はずっと気になる存在ではあった。

コロナ禍に突入してからめっきり美術館へ行く習慣が失われていた。美術館にしばらく訪れていないと、作品との対峙のコツがすぐ掴めないなんてことがよくおこるけれど心配は杞憂だった。

というのも、先述のカリブーの親子である。
草食動物の子が産み落とされてから数分で立ち上がることくらいはもちろん知っていた。しかし、母親が胎盤を食べるとは?

産休をいただいて以来、1日の半分は眠り、出かけるといっても友人とお茶をするくらいで、家事しか労働していない。人の赤ちゃんだって、生まれてからはほんとに手が掛かる繊細な生き物で大事に大事に守られて育つと聞く。自分も遠くない未来そのように扱うだろう。人間は、全くもってぬるい世界で生きている。

なぜ母親カリブーは胎盤を食べなければならないのだろうか?
考えられるのは、天敵から身を守るためすぐに移動する必要があるが、胎盤を残しておくと乳幼児が共にいる痕跡を残すことになるのでそれを隠すため。もしくは、出産のために失われた体力や血液をその場ですぐに補うために自らの胎盤を摂取するのか?
いずれにしても生きるための驚くべき習性を垣間見てはっとした。
(後で調べたところ正解は前者のようで犬にもそのような習性があるらしい、驚き)

狩り狩られて、最後は土に帰る。
人が狩られることはまずないところで生活している私たちはの自然なサイクルについて意識する機会はあまりにも少ない。食事についても、命をいただいているという意識はあまりにも希薄だ。

明らかに何か別の意思をもった生きものを腹に抱え、その存在を毎日感じているこの身であるにも関わらず、命を実感する機会は少ない。
おまけに暇を持て余してるときたら、いよいよ頭でっかちになるばかり。

”人の心は深く、そして不思議なほど浅い。
きっと、その浅さで、人は生きていける。”

星野道夫「悠久の時を旅する」

星野道夫氏はたまたま出会ったアラスカの写真集に魅せられて、なんのアテもないところから見ず知らずの村の村長に手紙を書き初めてアラスカの地を訪れる。以後大学に進学したり企業のから支援を募ったり様々な方法でアラスカに赴き、最終的にはアラスカの地に根を下ろしてアラスカを撮り続けた人。
その行動力と情熱に感服する。撮り続けるというバイタリティにも。

企画展会場を行ったり来たりウロウロしながらくるくる考える。

弱肉強食。当たり前だけどまだ自分からは遠い気もする。なんて眺めていたら、狩りをした凄腕猟師が解体したカリブーを船いっぱいに乗せて帰路に着く写真が展示されていたりして、私たち人間も例外ではないと思い知らされる。

アラスカの世界は、どこか空想の世界ではなく地続きで存在しているのだ。

彼の残した作品は、何も残酷で過酷な自然の世界だけでなく、しろくまの家族が氷の上でくつろぐ心温まる姿や、美しいオーロラの空、そこに暮らす人々とともに生活したからこそ撮影できる暮らしぶりなど、あるがままとらえている。否定も肯定もせず。

自分の内面の問題や半径5メートルの人間関係、将来に対する漠然とした不安も、大きな生命のサイクルやアラスカの大自然に思いを馳せてみるとちっぽけなものと捉えられなくもない。

そういった意味の鈍感さと、日々命をいただいていることに対しての鈍感さ。

いい意味で鈍感でなければ生きていくことはしんどい。けれど深さや繊細さを持ち合わせているからこそ美しさや喜びを感じることができることも事実なのではないか。そんな塩梅をカメラの寄りと引のように教えてくれるのが彼の残した写真や文章だとぼんやりと感じていた。

おそらく血生臭く、命を感じる体験が、近々わたしを待っている。


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