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渡邊亜萌「人間らしさを守る人間の会」ルポルタージュ | 文:2代目きつね 構成:山本桜子 レビューとレポート第34号

2021年12月、渡邊亜萌が展示で伝えた「人間らしさを守る人間の会」。ラッダイト伊東なる人物が率いるというそのムーブメントを知るべく、人間に憎しみを抱く一匹のきつねが赴いた。

1. きっかけ

人間に森を焼かれて以来、私の一家は人間に化け、都会の喧騒にまぎれて細々と暮らしていた。ある日、ある現代芸術の展示を観に行った親はそれきり帰らなかった。うわさでは人間に食われたらしい。だから人間が憎い。ついでに現代芸術も憎い。

私のように復讐の機会をうかがって人間に化け、人間らしさを擬態しようと試行錯誤しながら人間の芸術や文化や考え方を学ぶ人間以外のものはたくさんいるはずだ。しかしなかなか互いに正体を明かす機会がなく、協働することができない。互いに見分けられない以上、人間の姿をしたものを手当たり次第に食い殺すこともできない。

だから、「人間らしさを守る人間の会」の名前をきいたときは、人間に復讐する絶好のチャンスだと思った。そんな会に集うのは正真正銘の人間に違いない。そしてちょうど会場の美学校スタジオを有する神保町の美学校は現代芸術の教育機関でもあった。

しかし、今すぐにでも会場に出かけてそこにいるであろう人間を食う前に、まず下調べが必要だ。とりわけ近代以降、“人間らしさ” の概念は科学技術の進歩とセットではなかったろうか。とすれば、彼らは銃器などを持っているかもしれない。残念ながら私は銃器などを持っていなかった。

そこで私は美学校のHPに掲載された「人間らしさを守る人間の会」の案内を見てみた。そこには「人間らしさを守る人間の会」の概要や設立経緯を伝える情報はなかった。

末尾に「本展は、架空の人間至上主義団体 ≪人間らしさを守る人間の会≫ をイメージした美術展です」という但し書きが付されていた。そしてこれは「渡邊亜萌 個展」であるということだった。

渡邊亜萌氏には2020年、同じく美学校スタジオで開催された個展「強いAI」で会っている(1)。
「強いAI」では、人間に奉仕するAIから自発性を備えたAIまでさまざまなAIの姿が、渡邊氏の手により、主にロボットを題材とした絵画を通して示されていた。

印象深かったのは、古今東西さまざまな作品に登場する「人間になれないロボット」の姿を「対人関係が苦手な自分が抱える疎外感と無意識に重」ねていたと述べる渡邊氏のステートメントと、会場に並べられた絵がアナログな────人間が伝統的にやってきたような、絵の具を人間の手で塗る手法で描かれていることとの、一見矛盾ともみえる距離だった。ロボットに自分を重ねるならば、デジタルで描きたくなるのがふつうだろう、と私は思ったのだった。そして、その動機の真相はわからないが、とにかく無理して人間をやり続けている、という印象を渡邊氏の手法や筆致から私は受けた。「人工知能/ロボットを研究することは人間とは何かを追い求めることに通じ、それは芸術の役割とも似ているはずである。」というステートメントの結びもその印象を強めた。

無理して人間をやっている印象を与えるものは人間でない、というケースが経験上ごくたまにある。せっかくサシだったのに私が渡邊氏を食い殺すのをためらったのはそのためだった。
その渡邊氏が「人間らしさを守る人間の会」に関わっているとはどういうことだろう。

私は渡邊氏と「人間らしさを守る人間の会」についての情報を求め、PCを覗き込んだ。
デジタルの情報が見つからない可能性もあり得たが、幸いなことに「レビューとレポート」(2021年12月1日)掲載のみそにこみおでん氏の記事が見つかった。「(渡邊氏は)先の個展では、強いAI=汎用型人工知能が形になったロボットが(中略)人間らしく見える姿を描きました。“人間らしさを守る” とはそのような人間らしいロボットを前にアイデンティティが脅かされた人間がテーマのように見えます」とある。

渡邊氏のTwitterも見てみた。最近の投稿「ラッダイト伊東」という人物に言及していた。「人間らしさを守る人間の会」の代表はラッダイト伊東らしい。

「ラッダイト」とは産業革命期のイギリスで起こった機械打ちこわし運動に由来するものだろうか。18世紀末から19世紀初頭、機械の出現によって職を奪われることで収入のみならず社会関係や経験を否定された熟練職人らが謎の指導者ネッド・ラッドに先導され工場の機械を破壊したり機械を所有する資本家や機械の発明者を襲撃したと伝えられるラッダイト運動は、広く支持を集め、ロマン派詩人バイロンらを始めとする擁護者を得、こんにち既に人口に膾炙した “人間は科学技術によって幸せにならずそれに翻弄される” という言説に先鞭をつけたという(2)。

私にとって都合がいいのは、「ラッダイト伊東」などというさも機械を嫌いそうな名前の人間が代表を務める「人間らしさを守る人間の会」は、銃火器などは持っていないだろうということだ。

私は安心した。ひとまず会場に行き、渡邊氏と「人間らしさを守る人間の会」については会場で聞いてみよう。撃たれる心配はなさそうだ。

電車の中で渡邊氏のTwitterを遡ってみた。11月末のAI愛護団体 / VS  / 人間らしさを守る人間の会」という投稿が目を引いた。

「AI愛護団体」については次のことがわかっている。
「人工知能美学芸術研究会」、略称・AI美芸研という団体がある。彼らは、「人間による芸術」「AIによる芸術」「人間のための芸術」「AIのための芸術」を区分しつつ、AIによるAIのための芸術を称揚している、と(私の理解する限りでは)思われる。「人間らしさを守る人間の会」の開催期間とわずかに被った12月4日から19日、AI美芸研は長野で「人工知能美学芸術展:美意識のハードプロブレム」を開催しており、プログラムのひとつとして「NPO法人・AI愛護団体設立総会」が企画されている(3)。

渡邊氏は2018年から2019年にかけて、AI美芸研の主宰の一人である中ザワヒデキ氏の美学校での講座「中ザワヒデキ文献研究」を修了している。AI美芸研と「人間らしさを守る人間の会」の両者に共通しているのは “AIは人間にとって他者であり脅威だ” という発想であるように思われる。前者はその上でAIを肯定するいわば “外患誘致志向” であり、後者は “排外主義志向” であるといえようか。

私の理解するかぎりでは、人間界は、a) AIを親しみやすい存在として考える、いわば “リベラル” な人間の勢力と、b)  “外患誘致志向” のAI美芸研/AI愛護団体と、c)  “排外主義志向” の「人間らしさを守る人間の会」、三者の内輪揉めになっているらしい。

この三つ巴の中では、どうも「人間らしさを守る人間の会」は相当マイノリティなのではないか、と思えてきた。ちょっと前までは、人間界を代表する強大な敵だと思っていたのだが。
私見だが、実害はさておき心情的に最もいけ好かないのは、人間以外のものに対してフレンドリーに振る舞いつつ都合よく人間用のコンテンツに回収する人間界のマジョリティ、すなわちa)の勢力だ。もふもふ癒し動画とかなんとかいうやつなんかを喜ぶのはこの手合いだろう(4)。

……私情が混じった。Twitterを更に遡ってみよう。11月半ば、「【個展のお知らせ】/『人間らしさを守る人間の会』/12/3(金)~6(月) /美学校スタジオ / 都市伝説じゃない? 架空の人間至上主義団体は実在した! 西神田の奥地に『人間らしさを守る人間の会』を追え!!」という告知が、前述の美学校HP掲載の案内へのリンクとともに投稿されていた。そこそこ物議を醸しそうな投稿である。

仮に「本展は、架空の日本人至上主義団体 ≪日本人らしさを守る日本人の会≫ をイメージした美術展です」という企画や、「架空の男性至上主義団体は実在した!西神田の奥地に『男性らしさを守る男性の会』を追え!!」という企画があったとしたら要するのと同じように、「人間らしさを守る人間の会」も倫理的に、戦略的に葛藤と覚悟を要したのだろうか。

そして、そんな企画は昨今かならずやTwitter上で何らかの炎上を経てから行われるか、潰されるだろう。物議を醸しそうな問題に「美術展」という枠組みを与えてみても、芸術だからといってもはや免罪されない。「人間らしさを守る人間の会」が今のところ炎上もせず電凸も脅迫状も呼んだ気配がないのは、「人間らしさを守る人間の会」の影響力の弱さゆえだろうか。それともわれわれ、人外の不甲斐なさだろうか。

ともあれ、“芸術” も “人間らしさ” もおしなべて架空であるという認識が広く共有されている現在、「架空の団体」といえどそれだけでは何の免罪にもならないだろう。そしていずれにせよわれわれは他者を食べる。あとは誰をどう食べるかということだ(5)。そのためには実際に相手に会わなければならない。

■注

  1. 「強いAI」については「レビューとレポート」第14号 平間貴大氏のレポートが詳しい。

  2.  宮本陽一郎 『機械とラッダイト的想像力』(平成6年 電気学会全国大会特別講演)1994

  3. 「AI愛護団体」は「人間らしさを守る人間の会」の終了を待っていたかのように12月8日に設立され、現在NPO法人として東京都の認可待ちとのこと。

  4. もっとも、人間界マジョリティのフレンドリーさに対してこのように反発するきつねはきつね界でも少数派だろう。多くは本能のままに生存を選び、迎合し、飼いならされて癒し動画に登場し、猟犬、番犬、果てはチワワなどになっている。私が生存本能より矜持を重んじるのは、岸田秀いうところの  “本能の壊れた動物” つまり人間の価値観を内面化しているからだ。私がきつねなのは、チワワでないのは、人間に近づきすぎたからだ。このようなきつねをきつねと呼べるだろうか。“わが内なる人間” に気づけば、私ごときがチワワを批判できるだろうか。

  5. ジャック・デリダがこのようなことを書いていたと思うが出典が定かではない。彼は「食べる」という言葉を比喩として使っていると思われるが、比喩の虚構を “字義通り” の現実性に展開しないのが人間の限界である。私見だが、ラッダイト運動の面白さのひとつは “字義通り” の即物的な破壊にある。


2. “無敵の人” たちのラッダイト

「人間らしさを守る人間の会」会場は、神保町駅から数分歩いた袋小路の奥だった。入口に、マティスの絵をモチーフに描かれたらしいポスターと、「人間らしさを守る人間の会」と書かれた墨書が貼られていた。すでに夕方6時を過ぎており、ギャラリーの曇りガラスから蛍光灯の光が暗い路地を照らしていた。しばらく耳をそばだてる。中はしんとしていた。

ギャラリー入口。写真:2代目きつね
看板。画像:渡邊亜萌

引き戸を開けると無人の受付に置かれた芳名帳が目に入った。
「あなたは人間ですか」という項目がある。私は用心しいしい適当な名を書き、その項目に丸をつけておいた。

目をあげると渡邊氏が立っていた。

蘇るラッダイト運動

「おお、お久しぶりです。この催しにたいへん興味を持ちまして突然ですが参りました。ぜひ話を伺いたいのですが、その場合は在廊日などを事前にお伺いし、訪問日時を連絡するのが人間らしいといえるでしょう。そのような手順を踏まず、たいへん失礼しました」
私は悪いことをした現場を押さえられたかのように、あわてふためいてまくしたてた。しゃべりながらちらちらと周りを見た。他に人影はなかった。がらんとした室内に、プラカードなどで構成された立体物とホワイトボード、奥に一対のソファとテーブルがあり、壁面には絵やプラカード、墨書、文書などがいちめんに貼られていた。隅に暖簾があり、その上に「人間用トイレ」と書かれた札があった。死角はなさそうだ。人間が襲ってくるとしたら暖簾か入口からだろう。

「ぜんぜんかまいません。私、人間じゃないんで」
と、渡邊氏はいった。

私は目を丸くして渡邊氏を見た。やはりそうだったのか、という思いと、なぜそれを私に明かすのか、という不信感と、ではなぜこの会に、という疑問がないまぜになって渦巻いた。

「おやそうでしたか。それならばよかったです。実は私も……いや何でもありません、そんなことよりまずは見せていただきましょうか。いやはや、これはいったいどうしたことです?」
私は近くにあった構造物に向かってまくしたてた。「機械を信じるな」「デジタル庁解体」といった言葉を手書きで書いた段ボールのプラカードや死神の絵などが立てかけられ、隣には「人間らしさを守る人間の会」と書かれた達筆の墨書がまたも掲げられていた。

その構造物。写真:渡邊亜萌
入口付近から見た室内。左奥にホワイトボード、奥正面にソファと机。右画面外に暖簾のかかった出入口がある。写真:渡邊亜萌

「これは「人間らしさを守る人間の会」の主張です。今日ここにはいませんが、代表のラッダイト伊東はラッダイト運動に影響を受けています。ラッダイト運動の指導者ネッド・ラッドの生まれ変わりともいわれています。
この一番下にあるのが、ラッダイト運動当時に描かれたとされるネッド・ラッドの姿です。男性か女性かもわからない、謎の人物と伝えられています」

ラッダイト運動当時の版画のコピー。ネッド・ラッドの姿といわれる。

ラッダイト伊東に会えないのは残念だった。やはり彼の名前はラッダイト運動に由来していたのか。
200年を超える話の飛躍に惑わされつつある私は、おとなしくネッド・ラッドの姿だといわれる版画を見た。燃える工場と暴徒を背に、花柄のスモックドレスと左右別の脚絆のようなものを着てもじゃもじゃの頭を鉢巻で縛り、片足は裸足で立つネッド・ラッドは、凛々しさとも精悍さとも違う特異さ、いわゆる“無敵の人”らしさをたたえていた。

「そう、こういう人は現在もいます。ラッダイト運動と繋がっている主張もなされています。
たとえば先日、渋谷駅前の交差点で反ワクチン団体が演説をしていました。彼らは、ワクチンは国家と、技術を持ったグローバル大企業による管理システムへの布石だ、というのです。そして、国民をデジタルで管理するシステムだといって内閣府の「ムーンショット計画」に反対しています。
それらの主張をする人たちは、科学技術を一部の人間が独占して他の人間を管理することに危機感をいだいています。なぜなら自分たちは管理する側には行けず、管理される側にいるからです。そして、科学技術自体の得体の知れなさを見ているわけです。
陰謀論だといって笑うのは簡単ですが、その主張にはもっともだといえるところもあります。
社会常識的には、反ワクチン団体が演説していると笑ったり冷ややかな目で見るのがふつうですが、しかし笑ってる人たちにしても、そう誰もが技術を独占して人間を管理する側に行けるわけではないですよね」

渡邊氏の語る反ワクチン団体の主張はたしかに産業革命期のラッダイト運動と似ているように思われる。そういえばネオ・ラッダイトという運動もあるようだ(1)。

ラッダイト運動に対しては、階級闘争や労働運動の先駆として評価される一方で、物質的な生産手段それ自体ではなくその社会的な搾取形態を攻撃すべきだったという批判もなされている(2)。合理的な批判であると同時に、理論への回収ともいえよう。
現在、「ラッダイト」という言葉は技術の進歩についていけない “頑迷なバカ” を揶揄する意味合いで使われがちである(3)。

“特異でやばいやつ”

「……そういう主張をする人たちは、社会の中で “特異でやばいやつ” と思われます。 “無敵の人” もそれですよね。社会の側には “特異でやばいやつ” がふつうの人間の中に紛れて悪さをする、という意識があると思います」

理論化も揶揄も “特異でやばいやつ” を回収しようとする社会の側の試みかもしれない。その裏には、回収しきれないことへの恐怖もあるだろう。
回収しきれない “特異でやばいやつ” の排除が、世界的には2001年アメリカ同時多発テロ・日本では1995年地下鉄サリン事件をきっかけに、監視技術の発展やポリティカル・コレクトネスの傾向と相まって全面展開されたといわれ、管理社会の形成に寄与したという論もある(4)。

「……自分は “特異でやばいやつ” と思われる人たちの側だと思うんです。
反ワクチン団体とか陰謀論者とか、社会常識的に笑われる人たちでも、自分はそちらに行っていた可能性があると思う。
それから愛知中三刺殺事件の犯人、それにここ最近相次ぐ、電車内での事件。もちろん許されない行為ではあるけども、それを糾弾する “だけ” の立場にはなれない。むしろあれは自分だったかも知れない、という感覚には常に陥ります。
だから他人事ではないし、暴力性は誰にでもあるのだから誰にとっても他人事ではない」

渡邊氏の「私、人間じゃないんで」という言葉はこういう意味だったのか、と考えながら自分は目の前の貼り紙を見た。「人間らしさを守る人間の会へようこそ。」というラッダイト伊東のメッセージが書かれていた。

私たちは、機械の支配への危機感にめざめた貴方を歓迎します。日々こんなに頑張っているのに、何故報われないのか。どうして自分ばかりがこんな目に遭うのか。将来が全く見えなくなってしまい、生きている意味はあるのか。それらの原因は全て、人間から人間性を奪い、人間にかわって覇権を握ろうとしている機械と、それを支援する反人間主義者たちのせいなのです。

ラッダイト伊東のメッセージより

 “特異でやばいやつ” の中には、人間社会において人間扱いされないことへの苛立ちを抱えた者が大勢いるだろう。あなたたちこそが本当は人間らしいのだ、と彼らに伝えることで、ラッダイト伊東は “特異でやばいやつ” の受け皿になろうとしているのだろうか。ラッダイト伊東はいいやつではないか……いや、だまされてはいけない。

私はティム・バートン監督『バットマン・リターンズ』(1992)を思い出した。半人間、半ペンギンの異形の怪人は人間社会に受け入れられたいと願っている。しかしその願望は人間の選挙戦に利用され、失脚するや再び捨てられる。ほうほうの体で逃げ帰った彼は「人間になりたかった、だがもういい。俺はペンギンだ!」と叫ぶのだった。

「人間みたいになりたいと思っていたけれど、もうそうでなくてもいい」

怪人の台詞が脳内で消える前に渡邊氏がいった。

「「強いAI」の展示は “人間中心主義”のフリをするのも楽しいかなと思
ってやりました。でも人間界は私がいなくても回っている」

「AIを研究することは人間とは何かを追い求めることに通じ、それは芸術の役割とも似ているはず」という「強いAI」も「人間らしさを守る人間の会」も “人間中心主義”だ。しかし何かが違う。「人間みたいになりたかった」と「もうそうでなくてもいい」の境界がその間にあるのだろうか。渡邊氏はその間を行き来しながらラッダイト伊東と近づいたり離れたりしているのではないか────私はそんなことを考えた。今ここにいないラッダイト伊東のことを、もう少し知りたくなった。

ラッダイト伊東のメッセージとスペシャルサンクスの貼り紙。写真:2代目きつね

■注

  1. 本田康二郎「21世紀のネオ・ラッディズム 人工知能が引き起こす労働問題」〈金沢医科大学教養論文〉2016
    ネオ・ラッダイト運動はアメリカを発祥とし、歴史的ラッダイト運動に参照項を持つ運動の傾向であり、特定のリーダーを持たず、一枚岩ではないといえる。
    ネオ・ラッダイトという言葉は1990年、アメリカの社会運動家シェリス・グレンディニング「ネオ・ラッダイト宣言にむけたノート」で登場した。グレンディニングは単純で過激な打ちこわし運動というよりは、人々の生活やコミュニティを根源的に破壊してしまうような技術への吟味が必要だという意味でこの造語を使っており、具体的には電磁技術、化学薬品、原子力、遺伝子工学に対する注意が呼びかけられ、環境問題にも力を入れる。
    ユナボマーの通称で知られるテッド・カジンスキーは科学技術と環境破壊を進めていると判断した人物に1978〜1995年にかけて爆弾を送り死傷者を出し、自身の論文「産業社会と未来」を主要紙に載せるよう求めた。カジンスキーは人間の実存が蝕まれる原因を産業社会の科学技術であると説き、本来は不要な欲求に人間を縛り社会体制を温存させる原因として技術を批判する。ラッダイト的といえなくもないが、環境保護運動などには批判的であり、一部左翼の自然崇拝的傾向には明確に反対する(技術の進歩による経済発展を支持する保守・右翼にも反対する)。
    ネオ・ラッダイト的主張と一部通じる意見は科学者の側にもみられる。たとえばスティーブン・ホーキングは「科学技術による生産手段は独占され格差拡大につながる」と述べている(Stephen Hawking Says We Should Really 2016)。ただしこの発言は科学技術を否定するのではなく資本主義を批判する文脈でなされている。
    ネオ・ラッダイトという言葉は一般的に科学技術恐怖症的・陰謀論的・トンデモ言説の意を含む蔑称として使われることが多いようだが、ネオ・ラッダイト的主張が一枚岩でない以上、賛同側でも反対側でも文脈から切り離した文言をネオ・ラッダイト運動の傾向を表す何らかの証拠として使うのは注意が要るだろう。もちろん意図的に歪めることも可能である。

  2. カール・マルクス『資本論』(宮本陽一郎 前掲講演より)

  3. 「堀江貴文氏が警鐘を鳴らす「ネオ・ラッダイト運動」とは?」2020

  4. 外山恒一「戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている」2004


3. ラッダイト伊東の理念

演説会

メッセージの下に「人間らしさを守る人間の会 渡邊亜萌」と書かれたファイルがあった。ラッダイト伊東の演説会の様子を、渡邊氏が脚本形式で再録したもののようだ。

「人間らしさを守る人間の会 渡邊亜萌」ファイル。写真:2代目きつね

────ほとんどの人間は自分たちが機械を使いこなし支配していると思っているが、実は機械に使われ、支配されている。機械なしで生きられないよう人間を馴致するのは機械の戦略である。植物や動物に意志があるというのと同じ意味において機械にも繁殖の意志があり、しかも植物や動物に比べきわめて早く進化する。このことは先人によって200年ほど前にいわれていた。脅威に気づいた少数派の使命は機械の進化に手を貸す人間に抗い、侵略を食い止めることである。よって、機械に取って代わられない「人間らしさ」を守る必要がある。人間らしさの最たるものである芸術はそのために重要である────

私の下手な要約ではあるが、このような話をラッダイト伊東はしていた。「機械文明を、打ち壊す!」のコールで締めくくられる末尾は、N国代表の立花孝志を思わせる。

「人間らしさを守る人間の会 渡邊亜萌」ファイルより、ラッダイト伊東の演説会末尾。
資料提供:渡邊亜萌

先人たち

「演説にでてくる「先人」というのは、『機械の書』という書物を書いた人のことです」
渡邊氏の示す先に、手書きの文書が貼ってあった。『機械の書』からの抜粋のようだ。機械の進化に関する警告が書かれている。

『機械の書』からの抜粋。写真:2代目きつね

『機械の書』自体は残っていないが、『エレホン』(1)という本に一部が載っていることを渡邊氏に教えられた。
渡邊氏に案内され、スタジオ内の奥正面に設えられた応接間のようなコーナーへ行く。1対の肘掛け椅子の真ん中に木製のテーブルがあり、上には1冊の本と「誓約書」と書かれた書類が並んでいる。みかんも数個あった。

応接間コーナー。写真:渡邊亜萌
誓約書と『エレホン』。写真:2代目きつね

「ああ、これは当会への入会申込みの誓約書ですね。それよりこの『エレホン』は面白いのでおすすめです。作者のサミュエル・バトラーはダーウィンの進化論に影響を受けたイギリスの作家です」

ラッダイト運動と並んで「人間らしさを守る人間の会」の成立に影響を与えたらしい『エレホン』は、機械文明を破壊してユートピアに住む人々を描いた小説であるらしかった。手にとってめくってみる。けっこう文量がある。あとで取り寄せてみよう。

ちなみに誓約書の項目は、1) 会が承認した最低限の物を除き、身の回りの機械類を廃棄・制限する 2) あらゆる反人間団体への関与・交際等を断つ 3) 会の機密や不利益となる事項は入会中も退会後も漏らさない 4) 代表と会全体の意と規則に従い、人間が人間らしく幸福に生きる社会を実現するために努力を惜しまない、である。

問題意識と展望


応接コーナーの壁には、デフォルメされた人間がハートマークを抱えた旗が掲げられていた。「人間らしさを守る人間の会」の旗だろうか。その下に「人間らしさを守る人間の会とは?」と題する大きな紙が貼ってあった。

「人間らしさを守る人間の会とは?」。写真:2代目きつね

人間らしさを守る人間の会は、人間だけが素晴らしい存在であることを再認識するための運動を推進し、全ての人間が人間らしく幸福に生きる世界を目指す民間団体です。

こんにち、世界中であらゆる人間が機械の奴隷になっています。このまま機械が進化を続ければ、機械に歴史と文明を譲ることになり、先祖達が築き上げてきた誇り高き文化は、魂の無い機械たちに奪われ、破壊されてしまうでしょう。機械がマジョリティになり、人間がマイノリティになる、それが現実になろうとしているのです。

人間は人間だけが生み出すことの出来るスポーツや芸術などの素晴らしい文化を持ち、偉大なる先祖達が築いてきた重厚な歴史と共に、こんにちまで文明を発達させてきました。しかし、それには弊害もあり、自分達が生み出した、本来なら人間に奉仕する為にしか存在しないはずの機械に支配されつつあるのです。そこで、機械によって陵辱された人間の美しい魂を救済すべく我々は立ち上がりました。全ての人間が人間らしく輝く世界を取り戻すために、目覚め、共に闘いましょう。

西暦2021年吉日 人間らしさを守る人間の会代表 ラッダイト伊東

「人間らしさを守る人間の会とは?」より

末尾に添えられた英文「闘って死ぬ、さもなくば自由人として生きる。ラッド以外すべての王を打倒する」は、ラッダイト運動の熱烈な支持者となった詩人ジョージ・バイロンの言葉だという。
渡邊氏の指摘によると、バイロンの友人メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(1818)は「自ら作り出した機械に滅ぼされる人間」をテーマにしており、これもAI批判の先駆けといえる。トマス・ピンチョンは『フランケンシュタイン』を「最初かつ最良のラッダイト文学」と呼ぶ(2)。一方、メアリーの夫である詩人パーシー・シェリーの『鎖を解かれたプロメテウス』(1820頃)は機械に親和的だという。

楽園化計画


応接コーナーの横はラッダイト伊東のユートピア計画「富士山麓楽園化計画」のイメージで埋められていた。ホワイトボードには、ネット・TV・車を廃し「共同体、共助の復活」をうたった「アーミッシュの様な、美しい村」とある。

「富士山麓楽園化計画」。写真:渡邊亜萌

また、ポール・フラマン《黄金時代の愛》(1585-1589)、ルーカス・クラナッハ《黄金時代》(1530頃)など、理想郷的なイメージのルネサンス期の絵画のコピーが貼られている。
手を繋いで輪舞する人間が描かれたものがいくつかあった。スタジオの入口で見た、マティス《ダンス》(1909, 1910)を元にしたと思われるポスターの起源はルネサンス絵画に、またそれらが好んだギリシア世界のイメージに遡れることがわかる。

理想郷的情景を描く渡邊氏の絵とルネサンス絵画コピー。コピーには輪舞する人間像がみられる。
写真:渡邊亜萌

ルネサンス期のギリシア的な楽園イメージのコピーに混じり、渡邊氏による、2体のロボットの絵は異質だ。
彼らは互いのほうを見ることなく鑑賞者=人間に向かって微笑みかけている。機械は人間を馴致して繁殖するのだというラッダイト伊東の演説や「機械の書」の主張を裏付けているようにも思える。

2体のロボット。《楽園フォーエバー/Paradise Forever》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

「人間はこの絵のように人形であるほうが幸せだったかもしれない」

絵を見ながら渡邊氏がいった。西欧を中心とした価値観の歴史において、人間が自我を持つことは必ずしもよい結果を生む進歩とはいえず、近代を通じて、人間は幸せになる技量も技術や機械を使いこなす技量も足りないことが次第に判明してきた。それでも “人間らしく” あろうとするどこか架空でアーティフィシャルな人間像の、いわば擬態的な “無理してる感” にはつい共感を覚えてしまうのだが。

「強いAI」と「人間らしさを守る人間の会」の違いは何だろう、という先ほどの疑問に、手がかりが与えられたように思われた。
「強いAI」の “人間中心主義”の “人間” は、近代的自我を基盤とした人間であり、その中では描かれるロボットもそのような人間の似姿だった。それに対して、「人間らしさを守る人間の会」の掲げる “人間” は、近代的自我の主体としてのアーティフィシャルな人間の観念とは違うように思われる(3)。

「人間らしさを守る人間の会」の掲げる “人間” は敵たる機械の存在を前提とすることで生じ、より間口が広く包摂的である。また、誓約書に書かれているような「身の回りの機械類を廃棄・制限」するといった具体的な行動の指示が、イニシエーションの機能を果たしたり日常生活において活動の実感を与え、会員としてのモチベーションに繋がるのではないだろうか。

■注

  1. サミュエル・バトラー『エレホン』は1872年にイギリスで出版された。邦訳は1935年に岩波文庫より山本政喜訳、2020年に新潮社より武藤浩史訳がある。

  2. Thomas Pynchon  Is It OK To Be A Luddite? 1984 および、throwslope氏による翻訳トマス・ピンチョン「ラッダイトってありなのか?」 2014

  3. 私が人間界に潜伏するためにモデルとした人間観は近代的自我を持つ強い主体としての個人たる人間であり、こんにちにおいてはやや古いといわれる。
    人間界での交流においては、相手の正体不明さのブラックボックスに直面することがままある。このブラックボックスはわれわれの潜伏を可能にするありがたい存在でもあるが、人間界でのトラブルの多くはこのブラックボックスに起因する。人間における近代的自我の普遍的な実装はトラブルの多発を回避するために有効であったはずだが、実装しているかいないか体外からの判別が不可能であることをその特徴とするため、むしろこじれる場合もある。近代的自我を備えると頭上にランプが点灯するといった技術を開発する前に近代的自我自体が疑問を付されることになり、また、近代的自我を備えた主体自身がそのような管理システムと相性が悪かったことも影響して、開発は打ち切られた。
    コロナウィルス伝播中の現在、本能的な死への恐怖に基づき、より身体的な観点からブラックボックスの回避が求められており、多くの人間から管理・監視システムの徹底化が望まれている。コロナウィルスに感染するのは主にヒトであるため、罹患への予防策と広く認識されている手段を講じているかどうかで “人間か否か” を社会的に決めることになる。現段階では、マスクの着用・一部地域でのワクチンパスポート携帯の義務付け・SNSのアイコンにワクチン接種済マークをつける、などの案が採用されている。


4. 展示

いつのまにか時間が経ち、スタジオ内に1人2人とお客が入ってきた。人間かどうかわからないが人間の形をしていた。彼らに混ざって、渡邊氏の話を聞きながら展示を見てまわった。AIやロボットと“人間らしさ”の関わりが、さまざまな手法で示されている。

「(ラッダイトを)やってもいいかな?」と書かれたポスター。写真:2代目きつね

 “Is It OK To Be A Luddite?” は先に触れたピンチョンのエッセイタイトル。「ラッダイトをやっていいのか」「ラッダイトってありなのか」などさまざまな邦題があるが、ここでは「いいとも!」の合唱を喚起する訳となっている。ピンチョンのエッセイは、大まかにいえばラッダイト運動を肯定するもの。ピンチョン自身も小説『ヴァインランド』(1990)で、TVに支配された世界を逃れて山奥で暮らす人間の物語を書いているようだ(1)。

20世紀初頭、英コティングリー村で撮られ、発表された妖精写真のコピー

「コティングリー妖精事件」の写真コピー。1917〜1925年にかけてイギリスで発表された妖精の写真はコナン・ドイルらに注目され話題となった(2)。その背景には、近代的な合理性への反感があるといわれる。
また、被写体である妖精の真偽を巡って議論が交わされたことは、カメラという機械による写真という媒体に当時付されていたある種の信用を打ち壊したという点でも、ラッダイト運動の後継ということができるかもしれない。

墨書、プラカード、ポスター、コピー、絵や文書などが混在する壁面をさらに眺めてみる。

壁面。墨書、プラカード、ポスター、絵、文書、
コピーなどが混在している。写真:2代目きつね

達筆の墨書は渡邊氏が友人に書いてもらったという。そういえばAI美芸研もシンポジウムの式次第などで墨書を多用していた。
ラッダイト伊東の演説にも出てきた、機械への警戒を促す言葉の書かれたダンボールのプラカードが、啓発的なポスターや、機械の恐ろしさを描いた絵に混ざって会場のあちこちに貼られている。

ダンボールのプラカード。写真:渡邊亜萌
写真:渡邊亜萌
写真:渡邊亜萌
写真:渡邊亜萌

渡邊氏による、パンダ柄のロボットが男性に包丁を突き立てようとする絵。夜道で男女が少女を刺し殺そうとしているポール・セザンヌ《殺人》(1867頃)を元にしている。「この男性はパンダが好きでパンダ柄のロボットを使っているのですが、殺されてしまう。それに本物のパンダだって笹を食べるとは限りません。熊ですから」と渡邊氏。

パンダ柄のロボット。《自由意志/Free Will》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌
壁面。写真:2代目きつね

「鉄腕アトム」らしきロボットを描いた中央下の絵は、従軍画家・小早川秋聲《國之楯》(1944)を元にしている。「アトムはロボットと人間の間で揺れている存在」と渡邊氏はいう。しかし親しみやすい面のみが注目され、とりわけ日本において、善良な存在としてのロボット観が定着したのは、60年代以降にTVアニメ化されたアトムと70年代以降のドラえもんのおかげともいわれている。現在、AI産業を推進する言説にアトムが使われることもあるという(3)。

アトムらしきロボット。《国民的ロボットⅡ/The People's Hero》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

2021年夏の東京五輪の際、プロモーションにアトムが使われたことに対し五輪反対派から「アトムはそんな仕事をしないはずだ」と批判の声が上がった(4)。「アトムは与えられた仕事をするだけだ」という手塚プロダクションの反論が面白かった、と渡邊氏はいう。反対派にしろ開催側にしろ、ロボットを人間の友として捉えたいのは同じというべきか。

アトムと並んで日本人に親しまれるロボットである「ドラえもん」は、人間とロボットの間で揺れたりはしないキャラクターであって、紫綬褒章なども悩まず受けるのではないか、と渡邊氏はいう。ボカシが入っているが、戦死したアトムの右上にある絵は表彰されるドラえもんを描いたと思われる。

ドラえもんか?《国民的ロボット/People's Honor Award》2020 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

17〜18世紀初頭のウクライナで活躍したコサックの伝説を脚色したバイロンの叙事詩『マゼッパ』(1819)は、ヨーロッパで人気を博し、ドラクロワやジェリコーらロマン派画家に好んで描かれたほか、ユゴーやプーシキンの文学、チャイコフスキーやリストの音楽の題材になったという(5)。

ロマン派絵画《マゼッパと狼》のコピーを犬型ロボットの絵に貼り込んでいる。写真:渡邊亜萌

ここではロマン派画家オラース・ヴェルネ《マゼッパと狼》(1826)を元に、馬の背に括られて荒野に追放された若者マゼッパを脅かす狼を、アメリカが開発した犬型ロボット「SPOT」に置き換えている。
SPOTは軍などでの使用が見込まれておりいわゆる可愛らしさは求められていない。犬らしい感情表現は必要なく、尻尾もない。
ちなみにわれわれきつねも狼も尻尾を振らないが、人間に飼われてとくに従順な個体どうしを掛け合わせれば数代後には振るようになるときく。

SPOTと異なり、ペットとしての使用を目指して開発された日本製の犬型ロボット「aibo」。旧型AIBOの修理対応は終了しており “飼い主” にとっては生体のそれと変わらない “死” を意味し、“葬儀” “献体” なども行われる。性能的にも造形的にも親しみがわきやすく、もちろん尻尾も振る。価格は20万円強(6)。

aiboらしきロボット。《自由意志Ⅳ/Free Will Ⅳ》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

自分以外のものに対する人間の勝手な感情移入能力は相当に高いので、こんなに細やかな感情表現を生業とする生物をモデルにロボットを作らなくても、レンガとかで十分ではないかと思う。
この絵では、aiboが人間の指を噛み切るという、人間にとって、あってはならない事態が生じている。ちなみにaiboがモデルとするような小型犬が飼い主を食う事件は実際に起きているらしい。ほっぺを舐めているうちに遠い祖先の記憶が蘇るのだとか。

これは反ロボットのデモ隊を描いたらしき絵。

デモの絵。《イノセンス/Innocence》2019-2020 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

スタジオの応接コーナーに掲げられていた、ハートマークを抱える人間を中央に据えた「人間らしさを守る人間の会」によく似た旗も混ざっている。昨今の排外主義デモを思わせる光景だ。

この絵では、Googleを焼き討ちしようと取り囲む人間たちが描かれている。

松明を持つ人々。《民衆の敵/An Enemy of People》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

映画『フランケンシュタイン』(1931)で「怪物」を作り出した研究室を民衆が取り囲むシーンを元にしているという。

この青い絵は、処刑された犯罪者の公開解剖を描いたレンブラント・ファン・レイン《ヨアン・デイマン博士の解剖学講義》(1656)を元に、ロボットが人間を解剖する様子を描く。左側に描かれた人間の医者は手術中に後ろから刺されて死んでいるように見える。手術用として使われていたロボットがアームを伸ばして医者を殺したのち、人間の指示なしで解剖を続行し、脳構造を研究しているように思われる。

ロボットによる人間の解剖。《自由意志Ⅱ/Free Will Ⅱ》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

その下を見てみよう。

「こんな未来でいいの?」と「人間は血のつながり。」ポスター。
画像:渡邊亜萌

左のポスター「こんな未来でいいの?」はコンピューターに管理される人類の近未来を舞台にしたとされるジョージ・ルーカス監督『THX 1138』(1971)のワンシーンを元にしたという。

右のポスターは一転して “人間らしい” 場面。家族の誕生日パーティの食卓には妙に生々しい寿司が並び「人間は血のつながり。」とメッセージが添えられている。

……「人間らしさを守る人間の会」の展示を見、ラッダイト伊東の主張に目を通し、その熱心さに不覚にも興味を覚え始めていた。しかし、「人間は血のつながり。」を見ていると、ここで “人間らしさ” と呼ばれているものに対して長年いだいてきた憎悪が再びふつふつと湧き上がってくるのを感じた。私が人間に食われる寿司の側の存在だからか。
そもそも、このスタジオに来たのもその憎悪がきっかけなのだった。

この家族たちを1人ずつ左の『THX 1138』の世界や上の解剖台に引きずり出し、右の業火に放り込みたい。私は壁を眺め、燃えさかる建物を描いた絵に目をやった。「Pepper」に似たロボットが火事場から立ち去ろうとしている。

《自由意志Ⅲ/Free Will Ⅲ》2021 アクリル・キャンバス
画像:渡邊亜萌

「悪いロボットが家を燃やした、という設定です。でも、自分もこうしたいと思って描きました」

渡邊氏がいった。

最初にスタジオに足を踏み入れたときの「自分は人間じゃない」という渡邊氏の言葉を思い出した。「自分は “特異でやばいやつ” の側にいる」という言葉も。「暴力性は皆にある。他人事ではない」ともいっていた。そのとおりだ。私だって人間を食い殺したくてここに来た。

「自分の展示は “特異でやばいやつ” に届いてほしい。何々社長に買ってもらいたいとか、有名コレクターの何々さんのコレクションに入りたいというより、社会で人間扱いされない、人間の条件を剥奪されてしまった人たちがアクセスできるものが作れれば、という思いがあります。映画や漫画などのほうがそういう人に届きやすいとも思うのですが」

自分もお金には困っているので、お金を持っている誰かに買ってもらいたいということは避けられない、といいつつ渡邊氏は続けた。
この展示は当初は美学校で受講していたある講座の卒業展示のために準備したという。もともと講師が東京藝大の学生と始めた勉強会が母体であり、“動物” “反人間主義” をテーマにした講座だったという。しかし、美学校の卒展は流れ、藝大では同じテーマで展示が行われた。

「芸術シーンは結局 “藝大中心主義” で、“人間中心主義” だと思う。芸術を始めたときは周縁にいた人たちも、どんどんシーンの中心を目指していく」

私は渡邊氏のいう “人間”の意味をようやく掴んだように思った。「強いAI」のステートメントでいわれる “人間” は近代的自我を持つアーティフィシャルな観念だった。ラッダイト伊東の “人間” はより間口が広く、敵の存在を前提に成り立つ具体的な存在だった。それらを超えていま、そして「私、人間じゃないんで」といったときの渡邊氏が問題にした “人間” は、社会の異物──── “特異でやばいやつ”、動物、AI────を笑うにしろ叩くにしろ、食べ、利用し、親しみを感じたりもてはやしたりするにしろ、その社会なり業界なりの中心的な価値観を形成するマジョリティの都合に回収していくシステムの中心の謂れではないか。そしてそれはかつて「強いAI」で渡邊氏が「人間とは何かを追い求めることに似ているはず」と述べた “芸術” シーンにあっても、同じであるべくして同じだったのかもしれない。

「……だから、どうせみんな “人間中心主義” なのだから、それをうんとへなちょこなかんじでやりたかった。人間になれないやつが人間をやっているへなちょこ感でやりたかったのがこの展示です。仲間がいるぞと思って元気になってほしい」

「強いAI」で渡邊氏に感じた、無理して人間をやり続けている印象を思い出した。「人間らしさを守る人間の会」やラッダイト伊東の活動に渡邊氏がどの程度賛同し、手助けしているか、その内実を問い詰め、食べるか食べないか決めることなどもうどうでもよかった。「人間らしさを守る人間の会」に関わるのも、無理して人間をやり続ける手段のひとつなのだろう。同時に人間以外のものに関わろうとする手段なのだろうか。
そしてやはり、無理して人間をやっていそうなものは人間ではないことがよくある。

私は今回も渡邊氏を食べられなかった。

もう閉廊時間を過ぎていた。私は渡邊氏に礼を言ってスタジオを出た。またどこかで会うだろうと思った。「人間らしさを守る人間の会」に行って楽しかったと感じるなんて、行く前には考えもしなかった。そういえば1人も人間を食べられなかった。ラッダイト伊東はいなかったので食い殺せなかった。まあ彼も “特異でやばいやつ” なのだろう。今後しばらく動静をうかがおう。お客さんも食べそこねた。どうもためらってしまったのだ。もしかしたら仲間だったかもしれない。自らの甘さを痛感している。このまま私も人間と共生してゆくのだろうか。

最寄りのセブンイレブンで揚げ鶏を買って食べた。昔から鶏が好きだ。昔は生で食べていた。揚げてもおいしいことを最近知ったのだった。

■注

  1. 宮本陽一郎 前掲講演 および トマス・ピンチョン前掲エッセイ

  2. 『妖精が現れる!コティングリー事件から現代の妖精物語へ』〈ナイトランド・クォータリー増刊〉, アトリエサード,  2021 

  3. ZDNet Japan 「ドラえもんに学ぶ設計思想 なぜ日本人はロボットに親しみを感じるのか」2017.3.26

  4. 日刊スポーツ 手塚るみ子さん、漫画キャラ五輪応援団「開催賛否に彼らを巻き込まないで 2021.6.21

  5. Wikipedia  Cultural Legacy of Mazeppa

  6. SONY aibo

後記

山本桜子

構成のためにきつね氏から草稿を受け取った山本は、まず『エレホン』を取り寄せた。『エレホン』の邦訳は2種類あり、きつね氏は目下2020年版を読んでいるとのことなので、自分は1935年版である山本政喜訳のサミュエル・バトラ『エレホン 山脈を超えて』を選んだ。
物語はニュージーランドで綿羊業を営むイギリス人の青年が、牧場からはるかに見える山々を超え、奥地を目指すところから始まる。山脈の向こうには知られざる人々の国「エレホン」があり、青年は客人として滞在しながら彼らの風習を書き留めてゆく。
長い歴史を持つエレホン国は試行錯誤を経て、政治、宗教、経済、道徳、美学、死生観に至るまで独自の体系を築いている。「人間らしさを守る人間の会」に展示されていた「機械の書」はその一部である。エレホン人は人間に対する機械の侵略に危機感をいだき、凄惨な内戦の末、国内への機械の持ち込みや所持をすべて禁止したとのことである。
エレホンの価値基準では、病気であることや不幸であることは悪とされ、厳しく裁かれる。したがって、相手の体調を気遣うのはこの上ない無礼とされる。一方、われわれの価値基準で不道徳や犯罪とされることに対しては同情が寄せられ、手厚い措置がとられる。したがって、体調の悪いエレホン人はアル中のふりなどでごまかす。周囲も、それと知りつつ表向きは本人の申告どおりに接する。
個人的に面白かったのは、芸術家が作品を作らなければ報酬を払うというエレホン国の風習だ。われわれ人間の歴史の一部であるダダは反芸術を唱えたが、芸術をやめさせるために金を払う発想は、少なくとも歴史的にダダ運動を牽引したとされる者たちにはなかったように思われる。
エレホン人のつくったシステムは極めて理性的なように思われるが、青年は次第にエレホンがいやになる。「本能によって修正されない理性は、理性によって修正されない本能と同様に宜しくない」と彼はひとりごちる。現地で出会った女性とともにエレホンを脱出しイギリスに帰る。この見聞録の出版を進めている場面で物語は終わる。続編もあるようだが、自分は未読である。

ところで、山脈を超えて知らない国を訪れる冒険譚を読み進めるうちに、きつね氏の原稿にでてきたAI美芸研の展示「美意識のハードプロブレム」に行ってみたい気持ちが湧いてきた。展示は長野の山奥で開催されており、断片的な情報では、どうやらたくさんのAIとヤギ1匹で構成されているらしい。会期はまだ数日残っていた。昔はバックパッカーをやったりネカフェ難民をやったりしていたが最近はすっかり落ち着いた自分も、久々に知らない土地が見たくなったし、それに、AI反対派(と思われる)の展示レポートに関わっておいてAI賛成派(と思われる)の展示に行かないのは中立性を欠くと思われた。

会場の最寄り駅から会場にたどり着くのは参勤交代を上回るものすごい手間というもっぱらの噂だったが、所詮人間であり、それもだいぶ性能の低い人間でしかない自分にとって、AI(とヤギ)に勝るものがあるとすれば非合理的行為への意志しかなかった。自分はかなりの機械オンチであり、だいたいの機械のだいたいのボタンは爆破スイッチの擬態したものであると信じており、本能的にAIを敵の一種だと思っており、同時に、敵に相見える際は自分の持てる最上の強みをもって相見えるのが愚かしい存在たる人間の伝統であり礼儀であるという価値観を内面化している程度には保守的な人間だった。自分で自動車を運転する技術はもちろん持っていなかった。したがって、迎えの車を頼まずに、徒歩で訪ねるという非合理的選択をあえてすべきだと判断した。
各駅停車を降りた駅から見る山脈には、『エレホン』の主人公と同様、たいへんわくわくした。
その山のどこかにある会場には、実際のところ2時間ほどで難なく着いた。真っ先にヤギの声が聞こえた。続いて住み込みでAI(とヤギ)の世話をしているというAI美芸研の人間たちに温かく迎えられ、多くのAIに引き合わせてもらった。
最初に見たAI────安野太郎《Singing Bird Generator 2021》(2021) は、人間の背よりも高い何らかの並んだ構造物に1本ずつくくりつけられた複数のリコーダーが何らかの不気味な音を発するシステムを構築したものだった。自分の読んだ『エレホン』でも、山を超えた青年がまず出会うのは、吹きつける風に不気味な音階を奏でる巨大な石像の列だった。偶然の類似に喜んだ。そういえばエレホン国にもヤギがいたという。
帰りは優しい人間に車で送ってもらい、最寄りのバス停から無事終バスに乗った。
AI美芸研「美意識のハードプロブレム」については「レビューとレポート」第31号 みそにこみおでん氏の記事が詳しい。

念のためつけ加えておく。きつね氏は山本を片手鍋か何かの化けたやつだと思っているらしいが山本は正真正銘の人間であり、あまつさえ、人間らしくありたいと常に思っている。そのために講じた手段が近代的自我の実装だった、という部分だけはきつね氏と似ているかもしれない。強固な自我であり、焼けばおそらく骨のかわりに自我の殻が残る。最近はこの殻が撥水効果やUVカット効果を持ち始めた。自分は “特異でやばいやつ” ですらない。極めてまともでスタンダードな人間である。
本人、もとい本狐も気づいているようだが、きつね氏はお人好し、もといお狐好しすぎる。同時に妄想がすぎる。周りの何でも自分の経験に引き寄せて考えればいいというものではない、仲間なんてそうそういるものか、といいたいが、食われたくないので仲間だと思わせておく。
きつね氏は完全にスルーしているが、渡邊氏の展示に関して、ラッダイト伊東と渡邊氏が同一人物なのではないかという山本の推測の真偽は問わない。よくいわれるように存在は自分と自分以外で成る。よって、自分以外のものについては自己申告を、それが虚構だろうとなかろうと信じる。自己申告によっていわれた定義の内実や発せられた文脈、いわれたことといわれなかったことを考えて自分は何らかの判断を下すだろう。しかしそれは自己申告を信じることを前提とする。
このように、自分以外のものについては自己申告を信じるか、自分に都合よく利用する、即ち食うか、都合よく利用されるか、即ち食われるか、その合わせ技か、しかない。
よって、きつね氏の草稿の中で、きつね氏も含めて、自分がもっとも共感するのはラッダイト伊東の立場である。きつね氏も書いていたが、人間性は虚構である。即ち人間は自己申告制だ。自我はその自己申告、即ち虚構の壁ないしは殻、即ち決意性の謂れである。「会」────ラッダイト伊東のやっているような────はその決意性のもっともわかりやすい類似の形態だ。会は何を食い、何を食わないかを決める。食わないものの中には協働可能なものがいる。協働可能性を決めるのはそのものの自己申告、ラッダイト伊東の場合「誓約書」である。
AIを考えるとは人間とは何かを考えることに通じ、それは芸術の役割でもあるはずだ、と「強いAI」の渡邊氏はいった。この「芸術」の定義に異議のあるものもいるだろう。芸術は自我、ないしは人間以外のものとの境に向かっていき、その殻なり壁なりを超えることだ、という人もいるだろう。
しかし、それは人間の越権であり、殻ないし壁の向こうへの不敬である、と自分は考える。殻ないし壁の向こうにあるのは食うか食われるか、または、ひょっとしたら食うか食われるか、である。そのようなものに対しては、向かっていったり壁を超えたりするより、持てる強みの全てをもってそれを攻撃し、殻ないし壁を維持することが誠実だ。自分がラッダイト伊東を支持するのはこの点による。
ラッダイト伊東の説く "人間らしさ” は過剰である。それは、前回の展示「強いAI」で人間になれないAIに自分を重ねるにもかかわらず(おそらく)人間である渡邊氏が「人間とは何か」ということによって逆説的に「人間は何になれないか」を問うていることに発する。この否定形の "人間” を埋める過剰な虚構の充足がラッダイト伊東の説く "人間らしさ” である。
ラッダイト伊東の説く "人間らしさ” の内実には自分は正直乗り難い。しかしそれは自分が乗れる会を作るか選ぶかすればいいだけだ。乗れるものが多い内実と少ない内実があり、それぞれ目的と戦略が違うだけである。
ところで、きつね氏も述べるように、今回の展示で渡邊氏が「私は人間じゃない」というときの "人間” とは、“社会とされるものの良き成員” の意だろう。そして「 自分は  “特異でやばいやつ” の側」といいつつ、それを判断する、つまり “特異でやばいやつ” と “そうでない” の境なり壁なりに自覚的な渡邊氏は、あくまで自分の基準によれば、 “特異でやばくないやつ” である。したがって、  “特異でやばいやつ” を考える “特異でやばくない” 渡邊氏は、アトムがロボットと人間の間で揺れるようにまた揺れなければならないのではないか。
神、あるいは他の人間、人間の形をしたもの、あるいは灰皿やコップ、を分け隔てすることは自我にとっては本来不可知の領域であり、越権行為である。それぞれに対し持てる強みの全てをもってやみくもにそれを攻撃────利用、あるいは文字通り攻撃 ────することしかしてはならないように、AIと動物と “特異でやばいやつ” 、を分けることは自我にとっては本来越権行為だ。どれを攻撃しどれをしないかは決められない。
そこで “会” ────ここでは「人間らしさを守る人間の会」────が必要である。攻撃対象は、 “会” が “会” の虚構と決意性において決める。その意味で、理論上、 “会” ────党といってもいい────のみが自我を超える。 “会” 以外のものとも協働し、愛し、食べ、攻撃するだろう。しかし、それが自我を超える、としてもそれは偶然である。偶然を頼む理論は、“頼む” ところにおいて、つまるところ自我の延長である。問題は、自我を超える “会” なり党なりは現実的には何かということだが、それはラッダイト伊東の課題ではない。
「人間とは何か」を考えた先には決意性の虚構しかない。決意性の先には、常に虚構を点検し維持する営み以外に生産的なことは何もない。否、してはいけない。よって “芸術” 作品を作ることは “してはいけない”。よって、渡邊氏の展示もこの文章も“作品” ではなくあらねばならない、というのが山本の立場である。

(了) 

※ 文中Webリンクの最終確認はすべて2021.1.21 に山本が行なった。
なお、掲載にあたって渡邊亜萌氏から写真と画像を提供いただいた。渡邊氏の絵画につけられたタイトルや制作年などは展示会場では明示されていないが、正式名称として掲載する。

■展示情報

会期:2021年12月3日〜12月6日
会場:美学校スタジオ

渡邊亜萌(Twitter: @amoe15821971
1993年、神奈川県生まれ。
明治大学文学部卒。
2018-2019年度 美学校『中ザワヒデキ文献研究』受講
2020年度 美学校『動物 -反人間中心主義のアートはありえるか』受講
2020年 個展『強いAI』@美学校スタジオ

美学校HPより

■執筆者情報

2代目きつね


山本桜子
ファシスト党〈我々団〉『メインストリーム』編集部

写真・画像:渡邊亜萌、2代目きつね
『レビューとレポート』第34号(2022年 3月)掲載












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