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【自分軸哲学】思想論という『線引き』のイタチごっこ

ヘッダー画像は、滋賀で出逢った
飛びだし小僧(サムライver)です。
可愛い。

今回は短く綴…ろうとしたけど
なんやかんや長く…汗

タイトルが答えな感じなんだけれど、

思想を論じる事についての
自分なりのゴールを用意した。

思想を語るって

楽しかったり勉強にもなるけれど
良し悪しを言い出すとキリがないな、
ということ。


◎気づきという『線引き』

日常暮らしていて、
『気づく』時があるんだと思う。

仕事をしていたり、
ふと洗い物なんかしたり、
映画や本を読んだりしてると、

『あっ!これはそういう事か』
なんて、降りてくる時がある。

悟りともヒラメキとも付かない
その時点での『真理』みたいなもの。

それをメモしたり、
人に話したりするんだけど

それには大体種類が分けられて
ノウハウなどの
物理的な『方法論』と

教訓などの
向き合い方的な『思想論』とがあると思う。
(他にも色々あるだろうけど)

このnoteも思想論だ。

この思想論が展開される事で、
同時に『線引き』がされているな…と思う。


◎線引きで生まれるベクトル

例えば僕が、Twitterで
『早起きする事で、成功者への道が近づく!』と論じるとする。

これは、自分が朝活することで
『こりゃいいぞ!作業が捗る!』
って感動した体験からの『気づき』なんだけど

これを主張することで
1本の『線』が引かれる。

『早起きが出来て成功する人』と
『朝が苦手だから成功できない人』の境界線だ。

『何これ、引いたつもりないぞ。』
わかる。
でも、そこには確実に線が生まれている。

◎『線』としての思想

多分、大抵の場合は悪気がないんだと思う。

僕のこの記事についても、
『自分はこういう考え方と出逢っている』
という記録に過ぎなくて、
誰かを批判したいとかは一切ない。

でも、その思想と出逢った時の自分は
発見の喜びを噛み締めてて

『よいこと』の発表に
優越感を感じている場合もある。

それがなくても、
劣等感を感じる人が出てくる。

思想という『線』を引いてしまうからこそ、
それが一種の『評価軸』に変わる。

上下に、
左右に

カテゴライズされる思想たちが生まれて、

『自分は上だから、この人の思想に寄り添える!』
なんて、ファンになる人や

『自分は下だけど、何がダメなんだろう』
とか落ち込んで
一方的に傷ついてしまう人とかが生まれる。

不本意だけど、そういう側面もあるんだ。

◎『線』なんていくらでも引けちゃう

困った事に、

全員が同じカテゴリに入れる『線』って
なかなか引けないんじゃないかな…

物事には見る立場によって
良い部分、悪い部分が必ず存在する。

そこで
『あいつは自分と違う』
『お前こそ、その思想は危ない』
なんて論じ出すと、
両者合ってるし
同時に間違ってもいるから
一向に決着がつかずエネルギーばかり消耗する。

その論争自体、もう見飽きたし
『無駄である』って悟った。

じゃあ、
そもそも『線』は引かない方がいいの?

◎自分が持つ『線の引き方』を知る

少し前までの僕は
『線』を引かない生き方に憧れてた。

全員の持つ『人間の素晴らしさ』を信じ、
全員にぬくもりが伝わるような
オブラートな生き方を願っていた。

それは今も変わらないけれど、
その為にも発熱源になりたいと願うし、
『ブレない強さ』みたいな物を持ちたい。


だからこそ、
自分がよりしっかり生きられるような
思想の背骨。
【自分軸哲学】の醸成が必要だと考える。

その為にも、
自分がどんな姿勢で
世界と向き合っているのか

どう向き合っていけばいいのかを
やっぱり知っていく事も大切で

その為に
『自分がどんな『線』を引くのか?』

ノートが真っ黒になってしまうくらい
ラフでも良いから引いて、
少しずつ学んでいけたら良いなと思う。

Twitterだと主語述語が抜けて
本当の想いが乗せられないなら、
ここで少しずつ向き合ってくしかないのかな、
っていう自分なりの『面を敷いて』

線引きとの付き合い方に区切りをつけたい。


(正直、noteに思想を書くこと自体よくないのかな、って悩んだりする…)
(良し悪しなんてないわ。どうしても生まれる2つの方向性に、自分なりの付き合い方を見つけていけばいいの)
(随分漠然としてるけれど…仰る通りです)



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