【自分軸哲学】『自分』の広さと優しさによる痛覚
東日本大震災から8年の昨日。
あの二人を思い出した。
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◎遠距離女子
『日本が終わっちゃうみたい…』
当時好きだった女の子が言った言葉だ。
不安がる彼女に
『そんなことないよ…』と慰めながら
僕自身
不安な気持ちで頭が満たされてってた。
東日本大地震が起きてから、
テレビCMが
『ぽぽぽぽーん』だらけになって
たくさんの人が辛い心細い想いをして、
ニュースでは連日、被害の規模を伝えてた。
そんな漠然とした
霧のような閉塞感に苦しくなった僕は、
会社の飲み会で先輩に相談したんだ。
◎先輩の達観
『こんなん大した事ないって』
鉄板の上のお好み焼きを
自分の皿に取りながら、先輩は言った。
当時よく飲みに連れてってくれた人だった。
『俺も阪神大震災の時は、この世の終わりか思った。』
『テレビじゃ放送されなかった、ひどい場面も目の前で見てきてる』
『けどな、
今もこうして生きとんねん』
『今心配したところでな、結局なるようになっとんねや』
(そうなのかも知れないけれど…)
当時の僕は、
納得出来ていなかった。
続けて先輩。
『テレビで言ってた、津波で流された街に昔の元カノが住んどったんや』
『えっ…それで、大丈夫なんですか?』
『さあな、』
『もう生きとらんかも知れんな』
先輩の感情が読み取れなかった。
…冷たいな、
その時の僕は、
そんな風にしか思えなかった。
◎同郷の友の行方
僕自身も10歳まで、
宮城県の仙台に住んでいた。
テレビに、通っていた小学校が水浸しになっているのが映るのも見た。
僕は関西に引っ越したから、
たまたまそこに居なかったけれど。
当時の友達は、
どうなったんだろう。
分からない。
分からないし、
知ろうともしない。
知ってしまった時、
自分のこころがどのくらいに振れるのか
想像がつかないからだ。
だから、『知らない』ままにしている。
先輩と一緒だ。
これを『冷たい』とする声があると思う。
当然外からもあると思うけれど、
自分の内側から聞こえる声の大きさが
やっかいに感じる。
◎こころの振れ幅は世界との触れ方
今日もどこかの誰かに
何かが起きている。
自分に関わりがある人ない人関係なく。
こころを開いて、
そこに自分を繋いで
痛みを分かち合っていく行為には
優しさがあるし美しいと感じる。
でも、
それで痛みに飲み込まれて
『自分』まで身動きが取れなくなるのは
やっぱり違うんじゃないか。
どんなに大事なものでも
どれだけ優しいものでも
こころを開いて近くで触れすぎると、
接触面積が増えるにつれてこころが振れる。
振れすぎてしまう。
過ぎたるは及ざるがごとしじゃなくて、
過ぎたるは、『もはや毒足り得る』
とも言えるんじゃないかな、って。
あの日の先輩も、
本当はもっと触れてたかったのに
わざと距離を置いて
『自分』を守っていたのかも知れない。
◎本来の『自分』ってなんなの
人によって、定義が異なるんだと思う。
僕にとっての『自分』は、
『自分の肉体』であり、
『自分のこころ』であり、
『自分の思想』、
それから『自分の魂』に当たる。
それらの総称が自分だけれど、
こころを開いていくと
『自分の家族』『自分の恋人』
『自分の友達』…と
自分という領域が広がっていく。
でも、元を辿れば
『自分』は、自分一人しかいない。
◎痛みの痛圧調節
痛みを引き受けられるうちは良い。
でも『ちょっと痛みの圧が強いな』
って感じた時は、
遠慮なく距離を取って
『本来の自分』の範囲まで
世界を狭めてあげた方が良いんだ。
全てを引き受ける癖があるなら、
全てを引き受けないように。
そんな半端で利己的な
『自分領域』の持ち方も、
自分に許可していくべきじゃないかな、
と考えている。
それで圧に負けないところまで
ステータスが整ったら、
その時は領域を広げて、
世界との接点を増やしていこうと思う。
(誰かに優しくする自分が好きなんだけどなぁ…)
(あなたが優しいのは分かってるわ。あとは自分にも優しい領域を、ちゃんと覚えなさいってこと)
(仰る通りです、ありがとう…)
朝4時ブロガーの皿あらいです! ラジオ?というと大袈裟ですが少し喋らせて頂いております。よろしくおねがいします!