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20230233 無線が切れた さよならをした 

海底に沈んで嵐をやり過ごしているような日々、ライブや本当に好きな何人かと会っている日だけ海面に上がって息を吸えるのだ。昔は、音楽を作ったり絵を描いたりできる友達に対して、そんなに努力できてすごい、みたいに思っていたけど、今は自分のために好きなものとか夢中になれるものがあればいいのにと思う。どうしてこんなに毎日寂しいのかわからない、誰にもうまく自分のことを伝えられていないと思うし、でも伝えられたらそれは相手に不快感を与えるものであるに違いないから、伝わらないほうがいいものなのだろうとも思う。好きなもの、場所、ドトールと全てのライブ会場と地下鉄が好き。私が魔法使いだったらマナエリアは間違いなく青葉通一番町駅前のドトールになるくらい好きだ。みんなどうせドトールと思って来ているしどうせドトールだと思ってみんな働いている空気が好きだ。

昔自閉症の人が書いた本の中に「自分がそこにいるだけで役割を果たしていることになるから電車に乗るのがが好きだ」のような文があってあの感覚への解像度の高さにすごく衝撃を受けて、よく思い出している。私が好きな場所も、同じように全部主体性を持つ必要が全くないから好きなのかもしれない。何をしなくても、そこにいるだけでいいという肯定を私は地下鉄とドトールからしか受け取れないのだ。地下鉄に乗っている時間って「潰すべき時間」だから何をする必要も無い、家で一時間Twitterを見ていたら悲しくなるけど電車に乗って一時間Twitterを見ていても別にそれは時間を潰しただけでなにもロスしていないことになるのでは?と感じてしまう。そんなことはない…

(そう考えると、私は何もしないことが一番好きということになってしまう。)

あと電車やカフェなんかの、ああいう人がたくさんいる公共空間の緩やかな連帯感、あれが好きだ。電車で隣りに座った人とはきっともう二度と会うことはないけど、もし今大地震とかが起きたら、きっと少し言葉を交わしたりみんなで次の駅まで歩いたりして、お気をつけて、くらいは言うこともあるだろう。電車に乗っているときはいつも、なんの人間関係も無いときだって社会にはそれくらいの暖かさがあることをじんわりと信じている。そういうときの自分はきっとちゃんと善良な市民の顔ができるだろう、そんな形でしか社会との連帯を感じることはできない、電車に乗り合わせた隣の人と助け合える可能性は、日頃学校やサークルやアルバイト先で自分にのしかかる疎外感と迷惑をかけ続ける罪悪感よりもだいぶ心地良いと感じてしまう。これが寂しい人間だよ、タスクとタスクの交換でしか繋がらない人間関係を捨てたい。私が何もできなくなっても友達でいてくれる?


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