20230207 愛の実験

リリィシュシュのすべて、映画版を見た。星野くんの最初の方のあの感じすごい「居る」なと思ったんだけど、とにかく登場人物がみんな中学校にこういう人いたわ…という雰囲気であの薄暗い中学校の廊下とか、陰口とか、性の匂い、その中で見つけた自分の拠り所になれる音楽、帰ってきて膝抱えてるあの感じ、イケてたのに急にいじめられて学校に来なくなる男子、全部あったよなあ…なんかいろいろ思い出して古傷が痛んできた。痛い……考えてみれば、今よりもっとああいう意味での破滅ってすごい身近だったな…
「あいつあの子とやったらしいよ」とか「あの子子どもできて学校やめたって」とか「あいつ今学校来ないで配信者やってるらしいけど凸る?(笑)」とか「手首の傷見た?援交やってんだって」みたいな、そういうの全部、あったよな、今考えると本当にもうちょっとどうにかなったんじゃないのと思うけど、学校とか先生とか何してたんだろう。別に中学生がセックスしてもいいんだけどさ、そういうことじゃなくて、全然制御されてなかったんだなあと今になると思う。それは映画の中でも同じで、先生たちのなんもしてくれなさ、あったよなあ…

あの「青猫」が星野だったてわかるところで本当にあ~~~~~~~~~~~~~~~~ってなってしまった。最初の方誰がだれかわからないまま進むからもう一回青猫=星野だと頭に入れた状態で観たいな。星野が久野に向けている視線が本当にずっと意味が変わり続けていてつらい。ていうか最初の方、久野さんと蓮見が小学校の友達だったのかと誤解したまま見てしまっってたな。リリィシュシュという星野にまだ残っていた純粋な部分(それすらキャトル事件の頃には汚れてしまっていたのかもしれないけど)(ずっと全部純粋だったんじゃないのか?)を教えてくれた久野をどうして標的にしてしまったんだろうな…どこまでも綺麗な久野に対して自分だけが汚くなっていくことへの苛立ちみたいなもの…?フォリアと会って青猫はどうするつもりだったんだろう?それでいろいろ辞めるつもりはあったのかな。もしフォリアと星野が望むような形で会えていたなら、星野の未来ってまだあったんじゃないかと思う。

人が死ぬときの温度感ってああなんだろうなという気がする。「大丈夫だよ」と言って、「カイトになりたい」といった直後に死んでしまうような、あの速さ…最後のピアノを弾くシーンのあと、テーブルの上に立っている蓮見が首をつっているように見えてドキッとしたし、そのあとの体をぶらぶらさせてるの、あれ津田さんが登場したときにやってたやつだよな…

自分も好きな音楽を通じて人に出会ったり、自分が聴いている音楽を好きだと言ってくれたときのうれしさとか、知っているからこそ、すべてが壊れていくのが本当に見ていてつらかった。星野に救いはないのか?ないか…あのさあ!!CD割られるところ本当に抉られたんだけど!!!一昨年インスタにファンタズマのレコード割ってグチャグチャにしてる画像あげたやつ、お前、人生で一番許してないからな………

そう!思い出したけど最後に久野が弾くアラベスク、最後のE音が足りてないんだよな…その一音があればきれいに終止するのに、あの子たちの地獄は続いていくのか?でも、この映画をリアルに感じれば感じるほど、今生きている自分へとこの映画は繋がってくるような気もしている。それが希望でもあるのかもな(でも15歳ってちょうど少年法からは守られないのか。あれあのあとどうなるんだ…)


前もなにかで書いたけど、中学校の全部「生」でうけとめられる感じってすごいよな。化粧も髪型も自分が持って生まれたままで勝負するしかなくて、それをむき出しの感情でそのままジャッジされて、それが自分の居場所での評価に直結するっていう、そんな異常な場所って中学校を出てしまうともうどこにもない。そこでうまくたちまわれる才能とその先の将来って、大人になってしまえば本当になんの関係もないことがわかるんだけど、それが人生のすべてになってしまうようなあの閉塞した空気、それが普通であるかのように生活が続く意味のわからなさ、気持ち悪い…蓮見の嘔吐もなんかわかるなあと思うし、本当にあの作品のなかでも唯一のSOSだったのかな…


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