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「居場所」は、ない。けど、ある。

「居場所」いう言葉を見ると、ちょっとだけ心がザワっとする。
ずっと、私にはなかった。という過去の私の思いが、舞い戻ってくるから。

「なかった」というのにも語弊がある。
今も「ある」とは思っていないし、昔も文字通りの「居場所」というものは、あった。
家族環境は平和だったし、クラスでいじめにあったわけでもなく、
生徒会やクラブにも所属してたし、習い事もしてた。
オンラインにもオフラインにもお友達はいたし、不満はなかったと思う。
楽しかったと思う。

だけどどこにいても、ときどき、ちょっとだけ、居心地が悪かった。
どこかで異質な自分を感じていたり、私というものを理解してもらえないと思ってた。

「普通に恵まれてる環境」だったけど、小さな居心地の悪さが続くと「居場所じゃない」という思いが出てくる。
頭の片隅でなんとなくそれに気づいていながら、申し訳なさから、その考えを見ないふりしてきた。
だけどいつも、本当にここにいていいと、信じていたわけじゃない。

世界は、私にはちょっとだけ、安全じゃなかった。

安全じゃなかったのは、私の見えているもの・感じているもの・考えていること、
そういったものを周りの人にシェアして、受け止めてもらえると、私が信じてなかったから。

きっと小さいころに、小さな小さな、そういう経験をいくつかしたんだと思う。覚えてないけど。

信じられないから、出せない。
出せないけど持っているものだから、質的なものとして表れる。
表れるけど、私がはっきりシェアしないから「よくわからない」ものとして理解されない。
理解されないから安全じゃなくて、また出さない。

そういうループ。

共感するか、理解するかは相手のタスクで、私のコントロール外だけど
私は理解されたくて、でも出してしまう勇気がなくて
だから出さなくても分かってくれる人がやってくるのを、生きづらさを抱えながら待ってた

このループのベクトルを変える鍵は、私だったのに。

私が私を大切にするために、私のことを外の世界に出す。
そっちを選んでみたら、世界はちょっとだけ、安全になり始めた

もちろん、共感されないことも理解されないことも話が通じないことも、山ほどある。
むしろそっちが95%くらいかもしれない。

私には強く大きく見えているものが、まわりの多くの人が見えているものと、少し違うみたい。
ということは知っていて、
何年か前までは「私 VS. 世界の全員」みたいな気がしてたけど、
外の世界に出してみたら、ちょっと共感してくれる人、理解してくれる人、想像してくれる人がいることが分かった。
私とちょっと似てるけど全然違う世界との接し方をしている人の存在にも気づいた。
もうぜんっぜん違う人とは、そういう距離でいていいって気づいた。

気づくまでは、
生きづらさに気力を奪われて独りでいようとしたり、いくつかのコミュニティや関係性に(気づかず)依存していた

気づいたら、
「居場所」は私が決めるものだと思えたし、私が作り続けるものだと思えた。

だから(?)(だけど、かな?)、今も安住の地としての居場所は「ない」
私も周りも変化してるから、「ずっとある」という安心感に基づいた居場所は、ないなぁと思う。
ただただ、私が世界を選び続ける。
世界と仲良く手をつなぎ続けるために、選び続ける。
その間はずっと、どこかに私と私と世界が手をつないでる「居場所」が、あるのかもしれないなぁ。

#note #コラム #居場所 #コルクラボ本 #コルクラボ #自己肯定感

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