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好きになる音

#コルクラボ 班活動の8月のお題「好きになる歌詞とは」

読んだ瞬間
「あれ…?ないなぁ…最近そういうのない…」というのが私の脳内第一声だった。

若い頃は、あった。
めちゃくちゃあった。
そりゃあもう、好きな歌詞をあれこれひとつずつ、ノートに毎日写しては
お友達と交換するくらいには、好きな歌詞がいっぱいあった。

あの頃は、私の心を代弁してくれるような、共感できるような歌詞が大好きだった。
女性は本も代弁性の強いものを好むといわれるけど
まさに小説は、自分の気分に合いそうなものを片っ端から読んでいたし
毎日毎日繰り返し聞く曲は、どこかで私の苦しさや言い出せない気持ちとリンクする点のあるものばかりだった。

自分の心が作品になって、形になって、美しいものとして、世間に受け入れられるものとして、
完成形として提示されている。
こんな気分のいいものはないだろう。
と、今は思う。

私の努力なしに、私が認められて、きれいにされているんだから。

あの頃毎日聴いた曲は、今でもそらで歌えるし、こっぱずかしさと親しみの両方がまぜこぜになって
あーかわいいなぁ、みたいな気持ちになる。

ぜんぜん、あの頃の私も共感したい気持ちも、否定しない。
そういうの、たいせつ。

ただ最近、歌詞に惹かれなくなった理由がなんなのかは、
まだ考え中だから本当のところはわかっていない。
あり得るのは
・自分の気持ちに向き合いまくって、だれかによる「代弁」が必要なくなった
・和音が好きになりすぎて、歌は歌詞より音に興味が向いている
・しばらく前までの流行曲の歌詞の傾向が全く好みじゃなかった
とかかなぁ。。。
でもぜんぜん、ちがうかもしれない。

兎に角、ここ数年「うわ!めっちゃ好き!」と心を射抜かれるのは
メロディやコード進行、曲の構成、和音、
それを引き出すアーティストの声や歌唱力のどこかに、私のツボがはまった場合だと思う。

カヴァーが素晴らしくて、原曲を知っていたけど(そして原曲は興味なかったんだけど)改めて好きになった曲もある。
最終的に歌詞をよく読んで、感動して泣いたという歌もあるけど
入口は曲やうたそのものだった。

ここしばらくだと(「しばらく」の期間が長いのは歳のせいだ)
矢野顕子さん×上原ひろみさんの「CAPE COD CHIPS」
ミュージカル「Dear Evan Hansen」の「Waving Through A Window」
舞台「薔薇とサムライ」の「フラメンコ版:舞踏会は戦場」
salyu×salyuさんの「Mirror Neurotic」
ceroの「マウンテン・マウンテン」
高畑充希さんカヴァーの「ホームにて」
TRY-TONE全般
ミュージカル「Wicked」の「Defying Gravity」 とかが
歌詞以外の要素から「すき!!」ってなった曲。

ミュージカルの曲は、どれもすばらしい。歌詞が分からなくても、わかる。
アッコちゃんはひろみちゃんの和音は、聴いた瞬間にわかるくらい、特徴的で美しい。
TRY-TONEのアレンジや和音の進行は、カッコ良すぎて一生聴いていたい。
ceroのサウンドは、過去と未来の両方のにおいがする。

なんとなく、音の中に含まれる歌詞的だけど歌詞とはちがう要素に、惹かれているのかもしれない。
そもそも和音は言語的だと思うし、その意味でメロやコーラスやバッキング etc.. はそれ自体が歌詞なのかもしれない。

そう考えると、歌詞への共感とはベクトルの違うポイントで、
音楽と出会っているのかもしれないね。
いつか、またちがう形で、音楽と再会できたら楽しいな♪

#note #コラム #音楽

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