ほんのり狭さと侘助を感じられる場所・上田市(「居酒家のあ」「海野町商店街編」

「居酒家のあ」のもつ煮。

それが僕にとって1番古い上田市の味。

電車で10分。隣町から祖父に手を引かれ、地下のお店へ。

決まって座るカウンターで、あまじょっぱく臭みのないもつ煮を、まだ5歳ぐらいの自分はムシャムシャ食べていた。



祖母と出かけるときは車だった。

決まって海野町駐車場に停め、商店街を歩いた。
当時、2階建てのやおふくがあったんだ。
そこで買い物をして、まだたくさんの従業員さんがいた「福昇亭」でお昼を食べるのが決まったルート。

すれ違うのも大変な1階と、少し広い2階。
祖母と2人で行くときは、1階の端っこが多かったかな。雑誌が積み重なってるところ。家族で来るときはすれ違えないくらいの階段をのぼった先にある2階に通された。

2口3口飲めば終わっちゃうような小さなグラスに入った水が運ばれる。
そうそう、2階に水が入っているステンレスの入れ物があってさ。
水がなくなっちゃうと、下まで「なくなりました」って誰かが言いに行くんだよね。よく水飲んでたから、大体僕が言いにいく係にさせられたんだよね。

祖母はいつもあんかけ焼きそばを頼んでいた。
僕は焼きそばを頼むときもあったけど、中華丼の小ワンタンセットも好きだった。
焼きそばも食べたくて、祖母のをちょっともらっていた。
だけど、酢辛子が苦手で、かける前か、まだかけてないところをもらっていた。
ちなみに、酢辛子を自発的にかけるようになったのは、ここ1年ぐらい。
それまでは酢と洋辛子は大の苦手だったよ。

建物が変わっても、作る人が移り変わっても、メニューが変わっても。
乾煎りした焼きそばが、ジャッ!ジャッ!と音をたてて宙に浮かぶ光景は、今も昔も変わらない。

そこから海野町を歩いた。
「喜光堂」の前では、入り口で焙じるお茶の香り。
「ミスタードーナツ」はまだできたばかりだった。
「琴光堂」で高校生が楽器の調子を見てもらっていた。
「ムラタ」では入り口で必ずラジオが流れてた。革靴のにおいはここで嗅いだ。
今、リズムさんが入っているところの隣の一階に本屋さんがあった。そこでも良く立ち読みをした。(名前忘れちゃった)
「メロディーグリーン」の不思議な感じは今も昔もあまり変わらない。

そうこうしているうちに「富士アイス」に着く。

今でもそうだけど、その時も店前は混んでいた。
うちはその時7人家族。
あんこ派5、クリーム派2。僕はクリーム派。
祖母は家族の分+2つ買ってくれた。
そうそう。当時はまだ中に入れたんだよね。
頼んだのを待っている間、中でソフトクリーム食べたこともあったっけ。

新聞紙に包まれた7つと、あんことクリーム1つずつのじまん焼き。
祖母はできたての、少しパリッとした生地のが好きで、じまん焼きを買っていた。
僕はかじったときに出てくるクリームで舌をやけどしてからというものの、少し時間が経ってしっとりした生地が好きだった。

そうしてじまん焼きをかじりながら駐車場へ戻り、家へ帰った。


あれから20年以上が経った。
自分で運転ができるようになり、頻繁に上田へ行かれるようになった。
距離はぐっと近づいたし、新しいお店も増えた。

あの時の海野町は確かにそこにあったし、今でも通るたびに懐かしく思う。当時なかったお店、いなかった人たち。
もうなくなってしまったお店、人々。
今も変わらずある建物、お店、人々。
ラジオが流れていた「ムラタ」も、もうシャッターが上がらなくなった。
寂しさを感じる人もきっと少なくないはずだ。

だけど、あの時僕が海野町に特別なワクワクドキドキ感を感じていたように、今の海野町や上田市にワクワクドキドキ感を感じている子どもたちはいるはず。


サマーウォーズという映画でこんなシーンがある。

上田わっしょいで、栄(さかえ)おばあちゃんと手をつなぎなら歩いている幼き日の侘助(わびすけ)。

僕も祖母と祭りに来たこともあった。
あのシーンに、回顧を感じている人は少なくないんじゃないかな。
これからもたくさんの侘助(幼少時)が出てくると思う。
その裏では、必死に商店街を、町を盛り上げようとしてきた人たちがいるし、お店がある。
路肩を歩いている侘助には計り知れないことかもしれないけれども。

「ああ…」ってふとよぎるんだ。
帰り際にいつも目が合ってにっこり笑ってくれた「中沢たばこ店」のお店の人の姿が。だけどあれはおばあちゃんだったかな、おじいちゃんだったかな。もう覚えてないや。

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