当たり前のようにすぐ忘れるネタの数々
当たり前のことだが、山梨には海が無い。そんな山梨でパン屋を営む我が家に、旬中の旬のお魚、ブリが来た。
ちょっとした小学六年生みたいなサイズのブリが、長崎の遠い親戚から毎年届く。
「ブリ一匹捌いて消費するなんて無理」を合言葉に、親戚中をたらい回しにされるブリ。流れ着いた先が、我が家とは、ブリの数奇な一生はパン屋の煮付けで幕を閉じる。
この時期のブリ、通称寒ブリは、もう、当たり前のように、美味しい。刺身も煮付けも、食べたら「ギョギョっ!」って、なる。
ただまあ、やっぱデカイ。
ちょっと引いちゃうくらいには。
なんせ、小学六年生サイズなんだもの。
両親は、毎年、当たり前のように近所の魚屋さんに持っていく。
一番美味しい「アラ」と私も大好きな我が家の食パンと引き換えに、ブリを捌いてもらい、
ブリの刺身と煮付け用のブリを手に入れる。
刺身になったブリと、さっそく母が煮付けるブリが、今日の食卓には並ぶ。
ブリが届いた今日という日は、
正月並みに大事な日なのだ。
けれども、そんな大事な日は、当たり前のように、何の前触れも無くやってくる。
私の今日の予定と言えば、12時~21時までのバイト。
そこそこ疲れた足で家に帰ると、もう、そこには、ブリの名残なんて微塵も無い。
この空虚な感じは、あの時と似ている。
放課後、仲良しな友達と我が家でワイワイ宿題をした日と似ている。
夕方5時、私の街では、童謡「カラス」が流れる。それを聞くと、みな一斉に帰る。
その5時を境に自室に訪れる静寂が、
当たり前のように、部屋で1人の私を、きゅうーっと虚しくさせる。
ブリと放課後は同じだ。
せっせと私がバイトしてた頃、おそらく、夜6時から8時にかけて、私以外の家族は、もうそれこそ当たり前のように、ブリを、旬のブリを、滅多にお目にかかれないブリを食い漁っていたと思うと、まったくもって、もう…ほんとに。
えてして、そういうもんなのだ。
私は、てっきり、「ブリの煮付けは、とって置いてくれる」と思い腐っていた。
そしたらどうだ、煮付けた鍋が空になって
シンクで寝転んでいるではないか。
リビングでうたた寝こいてる母親と、
シンクの鍋が、妙にシンクロした、
疲れと疲労感、その両方を抱えてシャワーから戻る。
そうすると、さっきまでリビングで転がっていた母が、もそもそ台所で、何かしながら、
「ブリ、食べるでしょ?刺身と煮付けあるよ。」と、言うのだ。
私は思う。
家族って、ステキだ。
母親って、なんだかんだで、
なんだかんだする。
私がブリを食べている今、この瞬間という時間は、当たり前のようで、当たり前じゃーない。
美味しいブリと、父から分けてもらった日本酒が、五臓六腑に染み渡る。
ほんとは、こんな話がしたっかたのではない。
『当たり前』をテーマにちゃんとした話をしようかと一日かけてネタを考えていた。
それなのに、もう、当り前のように忘れた。
ブリが美味しくて、当たり前のように、数々のネタを忘れた。
再三思う。
このブリの美味しさは、決して、当たり前ではないなあ。と。
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