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おでこは広くてもいい。

おでこの広い私が言うのだから、おでこは広くても問題ない。

けれども、なにがどう問題無いのか、また同様になにが問題なのかを明白化することは、
ほんの少し難しくて、
それはどこか、「なぜ御社を希望するか」に似ている。

中学の頃、好きな女の子にラブレターを書いて渡したことがある。

プロ野球のドラフトにもかかるような先生が率いる、陸軍もとい、野球部に所属していた私は、おでこ丸出しの坊主を引退まで貫いた。

頬にはニキビ、頭は坊主、そんな僕が
いや、私が「あの子」に向けて書いた人生初のラブレターにはなにを綴ったのだろうか。

内容なんてこれっぽっちも覚えてないけど、
覚えてないから良いのかもしれない。

それでも、まぁ、「あの子」も快諾してくれて10ヶ月ほど付き合ってもらったのだから、
何かそれらしく気持ちの伝わるものが書いてあったのだろう。

あの頃からほぼ10年が経った今日、
久々に、ラブレターを書いた。

街のパン屋さんに、「修行させてください。」
って。

「僕と付き合ったら、こんなに良いことが。」

「一目見た時から、」

とかなんとか、そんな風なことが伝わるように、「天然酵母のパンを作りたい」とか、
「発酵な世界に片足突っ込んでいたら楽しくなっちゃって」、とか。

どうしてあなたのお店で働きたいのか、
なにが良くて、パン屋になろうとしてるのか、それはまるで、
「おでこが広くて何が良いのか。」を猫に教えるようなラブレター。

最初で最後のエントリーシートを書く気でいたけど、結果ラブレターになってしまった。それも、二回目のラブレター。

女性のオーナーさんとは知らずに、
散文的な口ぶりで書いたそのラブレター。

今ではすっかり髪も伸びた私のおでこは前髪で隠れてしまっていて、ニキビとも綺麗さっぱりお別れしたのに日の目を見る機会少なくなってしまった。
人より広いおでこを隠すこと、それと同様に自分の気持ちを隠すことに慣れてしまっている気がした。

坊主で、ニキビがちなおでこを大ぴらに、
帰り道「あの子」にラブレターを渡した頃の私はどこへ行っていたのか。

パンを買うついでに、オーナーさんに
ラブレターを手渡すと、当時のウブな気持ちが
ぱっと内側に広がった。

その感覚は春の陽気に当てられた梅の花のように、どこか淡いのだけど、
梅は梅で、私は私で咲いているんじゃ無いかと思えるような妙ちくりんな小っ恥ずかしさだった。

昨日の雨とは打て変わって、すっきり晴れた今日のお天道様が、最初に書いたラブレターのこと思い出させてくれたのかもしれない。

「たまには素直に、その広いおでこを晒すように、人に気持ちを伝えなよ。」って、後押ししてくれたのかな、なんて。

そうこうしているうちに、「あの子」に書いたラブレターの内容を思い出してきた。

「あぁ、青かったなぁ。」

「思えば、なんとなく、今日の晴れ間みたいな青さで、恥ずかしいけどいい思い出だなぁ。」

ラブレター渡した日はたしか雨だったけど、その青さが、まるで晴れた日の空みたいで、山梨の空は、遮るものなんてこれっぽっちも無いから、広いのだ。

空は広く感じゃられた方がいいんじゃない。

おでこも同様に、広くていいんじゃないか。

そんな風に回顧して、また恥ずかしくなっている。

おでこが広くていい理由なんて、私には大して重要ではないのだけど、約十年の時を経て、おでこは広くてもいいって思えたキッカケは、存外、大事な私のパーツなんじゃないかと思うのだ。




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