旅先のカメラ

もし仮に、人を、無機物に例えなければいけなくなったなら、私は、「カメラ」だと言う。

「カメラ」は連続性の中にある、ある一瞬のキリトリ。そして、それは、『旅行』のお供にもなる。

「よし、じゃー行こうか。」

『旅行』に行くにあたって、
るるぶやことりっぷを開いて、目的を作るのが、大変に苦手な私も、ついに、
日本酒を飲みに、新潟に行く予定が出来た。
旅行に目的を持つのは、修学旅行ぶりだ。
これは、進歩である。

「旅行というものの目的は、
行き先で勝手に浮かび上がる。」というのが、私の言い分だ。

けれども彼女を連れて行く旅行に、
そんな行き当たりバッタリで行くのもなにか、
申し訳ない気になる。

そもそも地図の読めない私であるし、
徒歩4分で着くホテルに90分かけてやっと着くような方向音痴だ。
1人旅行でない限り、ある程度の計画は立てるべきかもしれない、というのが最近の気づきである。

ただ、『旅行』の目的は、
出発前の下準備と比べると、
存外、ざっくりと、曖昧なものであるように思う。

「どこどこへ、行く。」
「なになにを、食べる。」

はたして、それは目的か、というだ。

『旅行』を楽しむための手段なんじゃないかということ。しかし、そのことを否定するつもりもなくて、

「旅行って、結局、何をしても楽しいし、
意外と日常の延長線上にあるよね。」と、
言いたいのだ。

海外に行って、日本語が通じないことすら
日常の延長線上だ。

本気のおばあちゃんと会話したことあるだろうか。腰が曲がりすぎてブーメランみたいになってる愛らしい、本気のおばあちゃん。

控えめに言っても、本気のおばあちゃん会話にはならない。
けれども、嫌な気持ちにもなりきらない。
多少疲れるけれど。

見たこともない街の風景を写真に収める行為は、スマホが普及した今、どこでもやる。

初めて降りる駅にワクワクすることも、
初めて手に取る本にワクワクすることも、
どこか似ている。

そんな日々の連続性の中にある、
「おっ!」という自分の心の機微に、
カメラを取り出し、一枚、「今」をキリトリ
してみることは、
人として生きる愉しみの最たるものであるように思う。

さらに、このキリトリ、
つまり、写真に収めるという行為は、
かなり、各人のカラーが出る。

私が写真に収める江ノ島の一枚と、
彼女が収める一枚、また、
さかなクンが収める一枚、
ラッセンが収める一枚、
星野源、松尾スズキが収める各一枚は、
多分、どれも違う一枚になるはずだ。

日々のキリトリ、
旅先のキリトリは、
私を含むみんなの視点の産物だ。

各生活があるから、それぞれ違う
写真になる。
見たこともない写真は、胸が踊る。

視点が違うから、
人が集まると、楽しい。

そして、『旅行』は、日々の延長線上にありながら、全く新しい景色を、視点を用意してくれる。そのことが、人々を旅に向かわせる。

全然違う写真を撮りに行ったり、
似た景色を見つけたり。

旅先でも、日々でも、
カメラ越しに見る景色や視点は、
大切で、特別な一瞬であることに、
変わりはない。

もしそうだとするなら、
もはや、たくさんの視点があれば、「今」をキリトる心のシャッターさえあれば、
日々の営みすら旅行なんじゃないか。

誰かが言った
「人生は旅だ。」と。

多分だけど、
色んなことがあるから旅なんじゃなくて、
色んな景色に出会えるから、また、
色んな視点に気がつくから、
「人生は旅」なんじゃないかなぁって、思う。

日々、慣れ親しんだ景色も視点を変えたら
プチ旅行だ、なんて思うと、
また明日も待ち遠しくなる。

「旅先でキリトッた写真、その一枚一枚も、
誰かと見比べるの、新鮮だし、楽しいよね。」

#エッセイ #カメラ #旅行 #写真


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久保田真司

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