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つぎのひも。

ついに今日、「書くことが辛い」という理由で、休む日が来た。

ここ最近の「書けない」悶々は、歯軋りしたくなるような苦しさを伴い、「今日こそは、絶対脱稿する。今日こそ休んでやる。」と意気込むことすらけったるかった。

が、今日、休むときが来たように思う。思い返してみると、この21年間、数ヶ月に及んで何か毎日継続し続けることなんて無かった。

中学野球部の時分でさえ、毎日バットを振ったことなんてなかったし、高校生になっても毎日勉強したことは無く、そう言われてみたら、毎日三食食べることはおろか、そういえば絶食する日もあるなと「食べること」すらままならなかったはずだ。

それがどうしたことか、「何か書く」ことを始めて、9ヶ月くらいの間、晴れの日はもちろん、雨の日の雪の日も、何てこと無い日も、飲みに行った日も、彼女と喧嘩をした日も、イベントに行った日も、彼女と仲直りした日も、何かしら書き続けてきた。これは、もう、非常に大変なことである。

アイデンティティの欠如である。

なんだか分からないが、昨日の疲れが今朝までどっかり残っていた。猛烈なけだるさと朝一番の洗顔を共にし、いつものように、どこか洗脳されたようにiphoneを開くと、あそこの味噌が美味しいから今度行くとき買ってきて、という旨のLINEが友達から来ていた。

味噌はどっちでもいいが、友達とのLINEは恐ろしいほど久々な気がした。

私が良くお世話になっている味噌屋さんのお味噌にハマッたという話のおまけに、「今度、就活用の自己PR見て欲しい。」と頼まれた。

お願い事の多い友達ではあるが、「暇だしいいよ。」と承諾し、内心、美味しいコーヒーをおごってもらおうと画策しながら、「そういえば、みんな就活してんだよね。」と返信を重ねる。

パジャマから、お出かけ服とパジャマの中間的な格好に着替え終わる頃再び、LINEの「口笛」が聞こえる。

「就活生感の無さが良いね。事前予約しておくからセラピーしてね。」

「うう、書けないよぉ。」と悶々としていた私自身が、友達からの需要に、なんとなく、ほんの少し救われたような気がした。

「みんなの心の三角コーナー的な子になりつつあるのかな。俺。」と返信し、あとは、無難なやり取りを繰り返し終えて、友達は、就活会場へ向かった。

雨の日に傘が盗まれた時と似た様な
寝起きのけだるさはなくなった。

代わりに、「自分を晒すとは。」という疑問が生じた。

友達は、今、就活を通して「自分」と向き合っている。私は私で、何か書き続けることを通して向き合った。

おそらく就活では、「一分間であなたらしさを表現してください。」とか、「過去失敗した話をしてください。」とか聞かれるんだろう。

「言語化」って、なんなのだろうか。

毎日何かしら書いてきた気づきと言えば、発信することは大切、自分の言葉に言語化することも大切であることと同様に、身近なことであればあるだけ言語化したくないな、ということだ。

毎日、何か書き続けて誰かがそれを評価してくれることに意味があるなら、重箱の隅に、「これだけは、言語化したくない。」というものをしまっておくことも、意味があるように思う。

さらけ出して言語化すべき自身の機微は、「何か書く」とか、「就活」の場においても、飾りつる必要はないんじゃないかと思いたい。

「うう、しんどい。」「うう、かなしい。」「あぁ、楽しい。」

ただこんだけのことを言うのに、対外的な巧い表現を探そうとしている小ざかしさとアイデアに踊らされる自身から抜け出したいな、って思う。

良くも悪くも、可視化された世界だ。滲み出るものにも、人の焦点は集まる。

三歳児を相手にするようなことを言うけれど、案外そんなもんかもしれなくて、「素直」であることは、取って代わらない不変で普遍の「良さ」であると思う。

就活生の友達に送る随筆を書いてるうちに、「日々、何か書く」ことから全く抜け出せていないことに気づく。「書くことが嫌なんじゃないのかな、」。

喜怒哀楽を巧みに表現するために言葉を探す「自身の欠落」を感じても尚、書くってのは、あれだと思う。

「自分で選んでやってるから。」だと思う。

やらされてるんじゃーないんだなぁ。
自分でやりたくてやってんだなぁ。

「意味とか、役とか、そういうの度外視で、誰に頼まれたわけでもないけれど、何かやり続けること」は、すべからず「特別なこと」であると私は感じている。

また次も、そのまた次も、『次』は続いていく。

「今日こそは、休んでやるぞ。」の自分と、
「もっとうまいことやりたい。」自分を結ぶ継ぎ紐になれたら、幸いだ。

#エッセイ #随筆 #書く #就活 #言語化 #自分 #表現 #継続






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