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私の生活、点字ブロック考。

点字ブロックに意思があるかないか、まぁきっと無いだろう。いや、絶対無いか。

でももし仮に、点字ブロックに意思があったなら、きっと点字ブロックの気持ちも揺れに揺れるだろう。

目の効かない人の役に立っているのだから、
本当は揺れなくていい。
ゴムだか何だかわからない素材でも、コンクリートに貼り付けられているだけでも、それでも、いいではないか。

凛として踏みしめられ続けるべきではないか。

でもきっと、点字ブロックに意思があったなら
「僕はずっとこのまま黄色でいいのか。」とか、「たまにはボコボコ替えようかな。」とか、「盲導犬としての道もあったんじゃないか。」とか不安になるんだろう。
「あと少し信号機の直前まで貼り付けられておくべきだったかもしれない。」なんて反省してみても良い。「最近は、歩きスマホだなんだと点字ブロックを闊歩する若者がいてけしからんな。」と、ブロックを赤くして怒るベテラン点字ブロックもいるに違いない。

日々の生活は、ごくたまに、私を蚊帳の外にほっぽり出し、それでいて順調に進んで行く。

淀みなく日々が続いてしまうことが、
どうも悲しい。
私の心の内などまるで「関係無いやぁい」と、スイスイと流れていってしまう。

私が、何か一つの物語の大変に重要な役であるなら私の内情に伴って、例えば雨が降り、時には雨も上がるのだろうけど。
アチィ日はずっとアチィし、出かける日も雨だったり、福祉の給料じゃ月頭に払う水道代すらままならない。

時折、「もういいや」って、歩くのを辞めたくなる。前だって見たくない。
何の誰の為に、私はこんな生活を送っているのかと。

でも、ふと思うのだ。
スマホをいじりながら踏みつけにしている点字ブロックの、その役割を。

きっと、私が辛い思いをしてまで助けなきゃいけない人の命なんて無いのだろうけど、
それでも私がある役割を担うことで、少し助かる人の営みも、ままあるのだろうと。

私が換えなくても良いのかもしれないけど、
私が換えてあげられるオムツもあって。

たまたま福祉をしているだけで、
例えば誰かの何か旅行プランを代わりに考えてあげたり、食事の準備を代わってあげたり、
誰かに代わって駅の掃除したりしている人がいるんだなって。

私ばっかりが黄色い点字ブロックのような気がしていたけど、結構長く点字ブロックが並んでるように、人の生活がスタスタと進んで行くように、働くというコトも、なんだか分からない素材であれど、連なっているのだと。

目の効かない人が人口の何割かは知らない。
けれども道の5分の1くらいは、点字ブロックがずらっと並んでいて、割に幅を利かせているではないか。

黄色というのは武田鉄矢が生まれた年から幸せの色だという風に、ローマ法王が国際的に決めた大事なことだった様な気がしなくもないが、
黙々と頑張るという、中学生のテスト期間みたいなスタンスを、あんまり馬鹿にしてはならないなと、考えたり思ったりするのだ。

私が前を向けないほど心がヘタレていたとしても私がいるから前を向ける、前へ進める人が1人くらいは居てほしいな。

何事もなく日曜日が終わってしまったのだけど、日曜日はそれくらいが良い。






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