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ダイエットできるなら何でもできるはず。

日々更新され行く営みの中で、新しいものを感じつつも、それに流されずにひとつのことをやり切れるなら、申し分なく素敵なことのように思う。

新メニューには目もくれず、淡々、永遠とマックのチーズバーガーだけを食べ続けたり、最初から最後まで、「あっちゃん」推しだったとか。

私には、到底真似できない芸当である。

ことさら私は、「大人になる」ことで、日本酒の旨みにどっぷり浸かってしまったのだが、そのおかげか、単に運動不足か分からないものの、「なんか太った?」と心配されることがまま増えた。

「太ったかな。」とかんがみる度「さて、ダイエットするべ。」と3日間ほどのランニングをこなして気がつけば、「あれ?そうえば最後に走ったのはいつだっけ?」と文句の付けようがない三日坊主を繰り返す。

思うに、自身が太ったことにさほどの緊張感が無いことと、継続すること、目標付けすることが下手くそなのだろう。

言い訳できなくなるまで、タスクを最小化することが出来なくて、どこか見栄っ張りな私は続くはずも無い「毎日8キロ走る」をののた打ち回るのだ。

ダイエットを自力でやり遂げられる人は、なんだってできるだろう。

最小化された目標設定、PDCAをまわし、目標までやりきる自制心。

専念する心は、個性の時代を生き抜くツールにもなる。

執拗なこだわり、探求、技術への向き合い方が、「個性」を構築する。

ほぼほぼ何も持たないところからスタートする各人の人生は、「こだわり」に彩られて多様化する。

自分に合う、好みの何かそういうことを突き抜けるためには、やはりまず、人類は、ダイエット経験が必要なのかも知れない。

あくなき日々の探求、その根幹を担う自身の身体を求めるカタチにダイエットする。

ダイエットできる人は、なんだってできる。

ジェフ・ベゾスだって、多分そう言うと思うのだ。



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