見出し画像

アドレスにするほどの熱い愛。

中学三年の妹の高校入試も終わり、我が家に漂っていた緊張感も和らいだ初春の候、この時期の母をとりまく新たな心配事と言えば、新調しなければならないスマホのことだ。

我が家は、決まって、中三と高一の隙間にスマホを買い与えてもらう。

私から始まり、妹1へ続き、もう次は、妹2である。如実に、スマホは我が家の日々を巣食い、馬鹿にならない通信費を積み重ねていく。

思い返してみると、私がスマホをもってすぐと言えば、eメールでのやり取りが主だった気がする。

「Re:」が帯びてくると、「そろそろバイバイしなきゃ。」と感じる照れくさい記憶がフラッシュバックする。

蓄積型のコミュニケーションの妙な照れくささは、もはや愛おしいほど懐かしく、これから高校生活が始まるウキウキ感と中学の頃好きな人と夜遅くまで連絡を取っている時間は、文化の潮流を浴びて尚多感であり続けた。

ふと思うのは、アドレスを目にする機会がぐっと減ったなということだ。

そのことに何か思うわけではないが、私と言う人は、ついこの前まで子供であったがために、アドレスからも子供っぽさは滲みでていて、好きなもの、好きな人を並列してアドレスを構成した。

と言いつつ、今でもそういえば好きなものでアドレスを構成しているなと発覚。

なんとも収まりの効かない恥ずかしさにパソコンの前で身悶える。

その様は、さながら、マック等で使用される
一本のストローが入っていた細長い袋を適切なむき方でむき、適量の水をたらすと生じるクネクネの奴みたいだ。

中学卒業から、友達間で爆速的にLINEが普及し、messengerの便利さに気がついた最近でさえ、私は、アドレスに好きなものを並べることと、身近に好きなものをおくことで「私」であったのではないか。

そう思うと、「私」を「私」たらしめるのは、私以外の好感の持てる何かである。

人と人、人とモノコトの結び目が、関係性であるなら、私は、長年にわたって、アドレスにしたくなるほどの熱い愛を飼い太らせ、妄想と隣りあわせで、好きなモノコトを心に棲みつかせてきたようだ。

図らずとも人はそうやって生きてくんだと、
ゆるやかに思う。

どうしたって、好意が持てる景色と在りたい。

人もモノコトも、どれだけ世界が便利になっても根幹は、「あぁ好きだぁ。」なんだと思う。

そこに他者の付け入る隙は無く、
あるのは心に棲み付く好きだけなのだ。

『アドレスにするほどの熱い愛』

宮沢りえさんとオダギリジョーさんで映画化してくれんだろうか。

「湯が沸きそう。」

そう聞こえたんだけど、気のせいだろうか…。

「読み手が有する映画への興味関心度に、
オチを委ねる活字の暴力だ。」
なんて、言わないで欲しい。

大好きな映画なんだけど、アドレスにするにはちと物騒で。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?