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休みの日のアラーム諸事情。

普段の早起きに伴う目覚まし時計の憂鬱は、言うまでもなく世界三大憂鬱である。残る二つは、くるぶしソックスが靴の中で脱げることと、バイトの終わり際にやって来るお客さん3名だろうか。

休みの日の目覚ましは、もう決死の覚悟で、「セットしない」という風に決まっている。なにがなんでも、「最低でも11時過ぎまでは寝てやるぞ」といった具合で眠りにつき、ハっと起きるその時、まさに究極の憂鬱、朝7時の憂鬱が襲ってくるのだ。

昨日の私は、日ごろの疲労、その蓄積を一蹴せんがためにわざわざ目覚ましのセットを放棄したにも拘らず、ハッと起きたら朝7時というのは、もやはなにか、敗北ではないか。

日ごろの朝起きに対し、私の心は大きすぎる負荷を感じていたということである。早起きのプレッシャーに、知らず知らずの内に、私の心が、負けてしまっていた、ということにハッと、愕然と、気がつくのである。

これは、悔しいことである。

目覚ましをセットしないという行為は、少なくとも、明日の朝、自分の好きな時間に起きてやるという、自由の獲得を意味する重大な行為であるからだ。それでいて、知らずの内に、時間というものの言うなれば奴隷に、心が成っていた、などと気がついてしまうのだから、朝7時にハッと起きるというのは、大変オソロシイことなのである。

私たちが、まさに今、時間というものに打ち克とうとするなら、あえて、わざわざ、目覚ましをセットするのがよろしいかと思う。

そうだな、ここはやはり、7時にセットしよう。

何も無い、久々のOFFだという日の目覚ましは、7時という少し早い時間が良い。普段の5時よりは遅いものの、7時はまだ、早朝である。

そうすると、私の心は、もう7時までは安心して寝られるのだから、ハッと7時に悔しく起きる事など、決して無い。いつもより長く寝られるこの120分に、感謝すら覚えるだろう。

そして運命の朝7時のアラーム。
1度目を覚ますこの時、「そうか、今日は休日か。」と、輝かしい事実を私はしかと、受け止める。まどろみの中、再び寝入ることが出来るのである。

無法の地に、本質的自由などありはしないと、私は思う。

規則の中に、「私」を見出す行為が、自由なのではないか。

セットし、朝、鳴り響くアラームを、「ポンっ」と止め、再び寝入ることが、はやりどうしたって、私には、本当の自由であるように思う。

2度寝しようとするその時私は、時間に、早起きのプレッシャーに、打ち克ったと、夢にまで見たOFFであると、実感するのである。

目覚ましは、セットするに限るのだ。


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