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創作することから都合よく逃げた後記

毎日何かを創作し、「仕向ける」ことは、しんどくて楽しい沼みたいなものだ。

「はじめまして」とか、「久しぶり、元気にしてる?」

なんてことない挨拶より先にフォローされたり、したり、コメントが飛んでくることで突如出現する「関係性」の濃厚な旨みを知ってしまったら、まぁそう易々と抜け出せないんじゃないかと思う。

ただやはり、そうは言ったって創作は時として「うぅ、しんどい。」

創作を料理だとするなら、最後に味をキメる塩一つまみが、創作における「アイデア」だ。

日々の蓄積から紡ぎ出される「私の作品」をエンタメとして「他の誰かが楽しめるカタチ」にデザインするのが「アイデア」とも言える。

創作に伴う辛さは、「創りたい」ものを「楽しんでもらえるようなカタチにするためのアイデアを搾り出すこと」だと感じている。

どれだけキラキラしたことを感じても、「エモい」で片付けていたら、共有できない。「エモさを言語化する様な難しさが、創作に伴うアイデアを産む苦しみ」なのだ。

自分だけのエモーショナルを人の楽しいとか幸せに変える動作の大変さは、容易に想像できる。

「何か書くために突飛で海外旅行のような日々」を過ごすのではなくて、日々を淡々と積み重ねる。

そういうことが、創作することから都合よく逃げつつも、創作の質を上げる行為だと、私は、信じているのだ。

創作に伴う苦しみから都合よく、よりよく逃げることは、実生活でも反映されている。

思えば、アイデアをひねり出すしんどさは便秘に似た苦しみであり、「なんも、うまくいかない」「なんだか、恋人と齟齬っちゃう」等の悶々と同様であろう。

ただやはり、「うぅしんどい。」と言いつつ、毎日何かを創作する様に私たちは、
日々の営みを積み重ねていく。

アイデアを産む苦しみから逃げるように淡々と、なんてこと無い日々を蓄積することで完成する作品が、ことのほか綺麗な色を醸す。

それと平行して、悶々とした平均的な日々は、紛れもない「自分だけ」の色をした代えの利かない日々なのだ。

時に都合よく逃げ、悶々から搾り出したアイデア、コトバや作品は、もれなく「仕向ける」ために紡ぎだされたものである。

これこそが、「自分を含めた誰か別の人にとっても」楽しかったり、少しの幸せを分けることが出来るステキな創作なのだ。

長くなったが、私は、「今日もいい日だった」とより良く寝るために生活している。

そういう微々たる生活の中にシステムとして組み込まれた創作の延長線に、「何か創る人」のにとっての「公園のベンチ」的な、一瞬の余白を作りたいなって思う。

美味しく晩御飯を食べることと、心地よく寝ることができるように、「うぅうぅ」言いながら、今日もまたちょっと、画面の向こうにいる誰かを想っているのだ。

このご時世だ。

なんてことない自分だけの「独り言」も、
なんだか気がついたら、「2人言」になっているのだろう。

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