口ずさんで、書きずさんで、鼻ずさむ。
『鼻歌』を、聞いたことがあるのは、
20年生きてきた中でも、おそらく数回である。
もっと言えば、
覚えている誰かの『鼻歌』なんてのは、
ついこの前の、友達の『鼻歌』、その一曲だ。
『鼻歌』っていう言葉を聞く頻度と、
『鼻歌』そのものを聞く頻度は、
比べ物にならないのではないか。
圧倒的な、単語としての『鼻歌』の勝利。
『鼻歌』。
鼻ずさむ、という行為。
「鼻歌を歌う人は、もはや、都市伝説」
まぁ、一定数いるとは思うが、
そんな気さえする。
無自覚に歌う『鼻歌』があるのなら、
他人に認識されない『鼻歌』も、
あるはずで、
もはや、それは、空気なのではないか。
音のする空気。
鼻からでる空気であるなら、
『鼻歌』は、呼吸か。
さて、人には、口癖というものがある。
私なら、多分、「まぁねぇ…。」
さらには、独り言というものもある。
作業しながらブチブチ言ってる、
例のあの人のソレとか。
口ずさんで、人は、生きていく。
さらには、
日々、誰に頼まれたわけでもないが、
日記をつけたり、エッセイ書いたり、
詩や句をよむ人もいる。
私は、それらを、書きずさんでいる、
と言うことにする。
調べたら、
「口ずさむ」は、「口遊む」と書くようだ。
「遊み」…
イケてる気がするのは、私だけだろうか。
杜撰とは違うみたいで安心したことと、
「遊む。」で、ずさむと読むかっこよさ。
「口遊む」だけでは、もったないではないか。
「書き遊む」も、よいではないか。
知らず知らずのうちに、
言ってる言葉があるなら、
書き癖のごとく、度々、登場する、
シーンや、フレーズ、ワードの類。
それらをまとめて、「書き遊み」。
再来年の上半期流行語は、
「遊みが深い。」(ずさみがふかい)
「マジ遊み」(まじずさみ)
このふたつで、ほぼ確定だろう。
酔った友達が、鼻ずさむB’z。
私が、書ずさむ「まぁいいかぁ。」
その他もろもろの、「遊み」が、
誰かの「口遊み」に繋がればステキな気がする。
その口遊みも、少しだけいい方向に向かうような、「ずさみ」なら、なお良い。
思想が渦巻くこのご時世、
アクションを起こす前準備は、その、思想だ。
「思想の根幹は、口にする言葉が決める。」
少なくとも、私は、そう思っている。
とは言ったものの、正直なところ、
私のエッセイは、
酔った友達の、『鼻歌』と、大して変わらない気がする。
一瞬生まれて、誰に届いたかも不明で、宙に散っていく空気の様なものなのではないか。
けれども、たまたま道端に落ちていた、
「友達の鼻歌」を拾い上げる私がいる。
それと同様に、
どんな書き物でも、誰かどうか、
読んでくれるみたいだ。
書きずさみの産物を、誰かどうか、
自分ごとの様に、また、別の方向に、
なにか感じ取っているかもわからない。
書き遊みは、誰かの一歩になるかも知れない。
言われてみれば、
みえないだけで、そこに、存在しているのだ、
空気ですら。
私は、「遊み」の深い世の中になったら、
いいなあと、思う。
口ずさんで、鼻ずさんで、書きずさんで。
今日も、誰かが、
どっかで、どうにか、『鼻歌』を歌っている。
そのことすら、
私は、なにか、特別なことの様に思うのだ。
あれだな、書き遊みのテーマは、
【「明日、何ずさんで生きてく?」】
〜ミュージック&ヒィロソフィー〜
ポスターは、
宮崎あおいさんで、よろしくおねがいしたい。
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