見出し画像

最初から最後まで、本当は寂しいんだよ

思い返してみれば、「食うため」「飲むため」まして「愉しむため」の人生ではなくって、「寂しさを紛らわすため」だったんじゃないか。

スマホは、寂しさを乗り越えられるため生まれたに違いない。

戦後、新幹線が発達したのも、東京オリンピックが目的じゃない。

テレビだって。映画と本が人の心に棲み付くのだって。

漏れなく皆、寂しさを払拭する為に、生きてるのだな。

「三週間ぶりの肉は、旨いねえ。」なんてのと同じで、「基本ずっと寂しいから久々に会うと嬉ね」って、好きなコトが一緒で、幸せだ。って、やっているのだね。

”雨を知らないと晴れの喜びも分からない”のと同様に、寂しさを抱えた自分を自覚していないと、今日この日のデートも、年に一度の同窓会も、なあなあになってしまうのだ。

皆、心の中では、うっすら気がついているのだね。

だから、たとえば、デートが終わる頃、「明日から仕事だ。」と、ちょっとなえちゃうのだ。

本当の自分は、本当の生活は、デートのような、飲み会のような日々だって、信じたいけど、心は、本質的寂しさに気がついているから、つらいのだ。

私たちがやるべきことといえば、「本来私は、寂しいのだ。」と自覚すること、そして、心がナーヴァスの時、いやこれもまた私の人生であると、一歩耐えることである。

耐えねばいけない。

簡単に、たった数秒で、「いまなにしてるー?」って聞けちゃうのだ。

寂しさから、目を、背けてはいけない。

寂しさを知らない、知ろうともしない奴に、「優しさ」など、分かるはずもない。

「寂しくない。」なんて言う奴の、得意だとかいうパスタは、「茹ですぎ」だと、決まっているのだ。

脆さを抱えているから、抱える覚悟があるから、人は優しくなれる。

人の優しさが、時に、私の寂しさを紛らわせてくれる。

そうやって、回っているのだから、仕方ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?