ジンジャーエールを飲むという事。

【まえがき】が必要である。
久々の久々に、雨が降り、思い出した事がある。
「靴下はいとも簡単に濡れ、その簡単さとは非釣り合いなほどに、濡れた靴下の不快感は拭えない。」ということ。
そして、そんなことも忘れてしまうほどに久々な雨である。
先ほど、濡れた靴下を履き替え、
新しい靴下を履いてる最中の私は、まぎれもない無であった。
頭の中には、雨のことも、靴下のことも
何もない。無。
そして、このエッセイにあるのも、無。
無しかないエッセイが今から始まる。
何かを感じてしまったなら、仕方がないが、
私は何かを伝えたくて、また、教訓めいた示唆を含んで書く。ということではなく、
「なんか、何言ってんの?」を楽しんでいただけたら良いなぁと思っている。
ただそれだけであり、
そして、やはり、
そこにあるのは無だけである。

しばしのお付き合い、よろしくお願いします。

飲み物の役割は、各種様々ある。
ジンジャーエールは好きだろうか。
「好きか嫌いかなら、好き。
でも、特にものすごい好きってわけでもない。」

「好きか嫌いかなら、嫌い。でも、飲めなくはない。」
くらいのものだろう。

私は迷子になる。
少し唐突ではあるが、迷子になってしまう。
ジンジャーエールを飲むときのテンションに。どういう顔でジンジャーエールを飲むのが正解なのか、分からない。

コーラを飲む顔では飲めなくはないだろうか。
ジンジャーエールを手に持ち、
いかにも今からジンジャーエールを飲むぞという顔つきで飲むのは恥ずかしくはないだろうか。
子供がオレンジジュースを口に運ぶ様には、飲めないジンジャーエールではないだろうか。

混然としながらジンジャーエールを
薄気味悪い笑みで飲む私は、便宜的に
ジンジャーエール難民とでも言えよう。

そして、
ジンジャーエールのペットボトル持ち歩くの恥ずかしくはないだろうか。

ジンジャーエール難民は続く。

いろはすや、ウーロン茶、コーラを手に持つ様に、ジンジャーエールを手に持ち、
オヒィス街、学校、大学内を歩けようか、
いや、歩けない。

ジンジャーエールのお高く止まったパッケージを持つには、あまりにも庶民的すぎる生活ぶり。そもそも、CANADA DRYが、?である。
そんな私たちの生活ぶりには、
ジンジャーエールが馴染むはずもない。

必死に頑張った結果、やっとこさ、
マックのセットにジンジャーエールを選べる。
それくらいに、

ジンジャーエールの居場所が分からない。

ジンジャーエールは、飲み物であり、
飲み物である以上飲まれなければならない。
その点はクリアしている。
世界中で飲まれている。が、
世界中のジンジャーエール難民が、努力と覚悟の上でジンジャーエールを飲んでいることを
往往にして私たちは、気づけていない。

人目をはばかる様に誰かが今も、ジンジャーエールを買い、口に運び、
すぐさまカバンにしまっている。
ジンジャーエールの扱いは難しい。
ジンジャーエールのテンションが分からないから。

だから、ジンジャーエールは、ダメ。とか、
今後、ジンジャーエールを手に取るな。とか、
っていうことではない。
どう飲まれたいのか、一切の意思表示がないジンジャーエールに対しては、
私たちも同様に、無 で飲む他ない。

ジンジャーエールに対して、考えてしまえば
深みにハマるのは私たちであり、ジンジャーエールはただ、飲まれる。
何も変わらず飲まれ続けるだけだ。

さっきも、コンビニで、私の隣でジュースを選ぶ人の目にジンジャーエールは映っていなかった。
が、だれかどこかでジンジャーエールを飲んでいる。
だからそれでいい。

だって手にとったの伊右衛門だったし。

まえがきでも述べたが、
私はこのエッセイに、ジンジャーエール哲学を求めているわけでも、
教訓めいた示唆を含んでいるわけでもない。
そもそもジンジャーエール哲学とは?って感じだ。

あるのは、ただ、今も全国のコンビニには
ジンジャーエールが陳列されている。
それだけである。
それ以上でもなければそれ以下でもない。

もしかしたら、
集会、同窓会、パーティにだけ顔を出す象徴が、ジンジャーエールかもしれない。

#エッセイ #ジンジャーエール

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