色について、色々言ってみる。
もし仮に、プーさんが青ざめたらどうなるのか。緑にでもなるのか。
私が通った小学校は、ある学区の生徒に熊よけの鈴をランドセルにつけることを強制していた。山梨の片田舎とは、そういう所だ。
ある日突然呼び出された生徒たちに配布されるちゃんとしたサイズの鈴と、みんなに配られた熊出没のお知らせの衝撃は、なかなかのものであった。
熊よけをつけるほど山々しい所に住んでいるわけではないが、私にとって熊とは、最寄りの最大級危険生物だ。
「熊はヤバい。」と、教育の名の下に脳に刷り込まれている私であるが、「熊は危険」だと認識付けている要因を考えると、鋭い爪でも、眼光でも、鮭を器用に捕獲する点でもなく、真っ茶色な胴体であると思えてきた。
くまのプーさんは、怖くない。
それはひとえに、プーさんが真っ茶色ではなく、黄色と赤色という某世界的ハンバーガーチェーンと同じカラーリングだからだ。
私たちの世界は、色によって支配されているところがある。
例えばの話、カフェのランチセットのサラダが真っ黒であったならそれは本当にサラダであろうか。
サラダの役割は「色を食べる」ことである。
あんな微々たる量の野菜を食べてなんになろうか。同時に摂取するドレッシングの方が、
回りまわって、体内に何らかのパンチを与えそうだ。
それでも、人はサラダを食べる、色を食べるために。
色に関して、妄想してみると良い。
森で熊に遭遇した瞬間を。
そして、出会った熊が真っピンクであったなら恐怖を超えて、なんらかの興味が湧いてきそうだ。
色に安堵し、色に恐怖する私たちの一生。
ほとんど赤と黒しか見かけなかったランドセルも、今道行く小学生の背中は、十人十色だ。
色への認識の違いが、世代ごとに如実に変わり始めているように感じる。
昨日、あるインスタグラマーが、
「全身さくら色のプーさん」のぬいぐるみをアップしていた。
うすいピンクのプーさんは、たしかに可愛い。
けれども、私は、思わずにはいられなかった。
「それは、プーさんなのか。」と。
赤い服を着た黄色い熊がプーさんである時代は、もう終わってしまったのであろうか、と。
色は必然の産物だ。
サラダと呼ばれるものが緑を中心としたカラフルであると同様に、プーさんの黄色と赤色も「そんな熊おらんやろ」と子供たちの安心を確保するためだ。
全身さくら色のプーさんはなんの必然性があるのか。
おそらく、多分、
はちみつの様に甘いステキな春の訪れを提供するためだろう。
あなたの好きな色は、なんだろうか。
もし仮に、好きな色をした熊に遭遇したなら、逃げる、死んだフリより何より、
Twitterか、インスタのストーリーにアップするはずなのだ。
それこそまさに、色による世界の支配が表出する瞬間…。
さて。
ありえないことを言うのも、たまには、
なかなか楽しいことだなぁと、思う日曜日の夜は、なにか少し、ホッとする。
カレンダーの赤い日が、私は好きだ。
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