待ち時間に生きる。

そういえば、今年の国立大の後期試験は、もう終わったのだろうか。何年前かうまいこと計算できないけれど、数年前の私が山梨から滋賀まで受験しに行った結果発表は、こんなような彼岸を迎える時期だった。

当時は、もうとっくに春休みに突入した友達たちが自動車学校に通うなか、市立図書館に通い、閉館しているなら県立図書館へ向かう孤独な生活だった。

途切れ途切れの集中力では踏ん張りも利かず、不合格を言い渡される日を「早く早く」とどこか待ち望んでいたような気がする。高校生と大学生の間の余白は、ついこの前まで、なんとも消化し難い時期だった。

時間と言うものは、あっという間に流れ、私の友達は順調に「就活生」になった。私も、傍から見たなら十分に「就活生」なのだけど、就活しないので、そこは少し線引き。

皆は、面接や、エントリーシートと向き合い、試験結果が通達されるのを待ちながらの生活を送っているということだ。

ふと思う。

起きてから寝るまで一日を24時間だとするなら、日に何時間「待つ」をしているだろうか。

はっと目が覚めるまで待っているし、ご飯が炊けるまで待っているし、電車が来るまで、料理が運ばれてくるまで、お風呂が沸くまで、夜が明けるまで。

思い返していたら、なんだか、ずっと待ってる気がした。

なんなら、生きている今さえ、死を待っているかも分からない。

ほとほと待つのが嫌いな子だった私も、そこそこ待てるオトナ風になった。

待てる人待てない人いると思うが、私は待てる人でありたい。そう思うのは、飲食店でバイトし続けているからだろうか。

まぁ、待てなくても、待てても、どっちもさして変わらないことなのだろう。

私に限らず、修学旅行の下ごしらえは、わくわくする待ち時間であっただろうから。

「どうしようか。散策コース。」と考える時間は、「どう待とうか。」と同義だ。

これからの人生も、そんな風に過ごす事になる気がしてならない。

スマホを見るながら、ちょっとぼーっとしたり、わくわく、時に辟易して、人は待ち時間を生きていく。

スキマ時間を埋めるようにブログを書くなら、なんだかよく分からないけど、受け取った生をより良くするために日々を積み重ねていく。

「どう待つか。」

それはすなわち、「どう生きるか。」を意味する。

知らない人が並び、ごった返すラーメン屋に見る行列に対して、「何をラーメンごときに行列しているのか。」などと、私が、付け入る隙など無くて、できることなら、他人にとは関係を求めすぎずに、社会にとって良くなる様な「待ち方」をしたい。

「他の誰でもない、「私」という「待ち時間」の使い方は、自分が決めたい。」

なんて、お風呂、お父さんが上がってくるのを待ちながら思うのだ。

そこそこ待てる様になった私だ。
次は、「どうやったら楽しく待てるか。」を知りたくなっている。



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久保田真司

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